蟹の供養
  
 今朝のテレビで蟹の供養風景を放映していた。薄野繁華街でカニ料理店を経営している人たちが中心になっての行事で、僧侶を呼んで読経するなど本格的なスタイルである。
 主催者の発言がまた良かった。なんたって「150万匹の蟹の供養」であり、「おいしく料理しなければ蟹の霊が浮かばれない」からこの行事になったと言うのである。

 まあ、単純にカニ料理店の宣伝だと割り切ってしまうならそれはそれだけの話なんだけれど、供養というそれなりおどろおどろしい形式を使っているにもかかわらず、その中に命の重みがなんにも伝わってこないことになんだか白けてしまった。そしてそれ以上にいかにも勿体づけて読経する坊主の姿に馬鹿馬鹿しさを超えてなんだか腹が立ってきたのである。

 現象的には建物の新築や大きな土木工事などのまえに神主を呼んでやる棟上式とか地鎮祭などと似たような行事であるとは思うのだが、「死んだ蟹の供養をする」という発想をしている経営者、そして供養という言葉に便乗した坊主の行動になんだか命の軽視というか無視みたいな粗雑さを感じてしまったのである。

 命を商売道具に使ったことをどうのこうの言いたいのではない。生命保険の受取人を貸金業者に変更することで金を借りる契約に対して最近東京高裁が「弱者の命の売買につながる」として変更を認めない旨の判決を出したけれど、命が商売になること、そして命を宣伝に使うことなんてことは、臓器売買までの極論を考えなくても、野菜屋や肉屋や魚屋、それに生命保険や葬儀屋などなど世の中に溢れるほどあるんだから、そうしたことにいちいち目くじらを立てていたのではこっちの身が持たなくなってしまうだろう。

 私はそんなことよりもこのカニ料理店の経営者や読経の坊主が、命をなんにも理解していないのではないかと思ったのである。それは単なる蟹の命という問題ではなくて人間であるとかすべての生き物に対するもっと普遍的な命そのものをなんにも理解していないのではないかと思ったのである。

 命の対にある死を終わりと考えるか一つのけじめと考えるか、はたまた残すことであるとか新しい命へのつながりと理解するか、それとももっと別の意味を与えるかは人それぞれだと思うけれど、少なくともその命は個として一つしかなく、尽きた命はそこでなくなってしまうことを意味しているのである。

 人は死んでもなお生き続けたいと考えたのかも知れない。だから巡る命として輪廻転生の中に己の存在を置こうとしたのかも知れない。かつてあったものが今あることと命の始めが何もないところからの創造であり死は無に帰することであることのどちらにより理解が届くのか。今あるものが永遠に続いていくことの慰めは死に行く者にとっての大きな魅力ではあるだろう。
 だがしかし、それとても前世の記憶が引き継がれることなく死によって断絶してしまうことはそうした魅力が幻想でしかないことを知らせてくれている。

 供養とはそうした断絶する命を「残された者が思うこと」なのではないのか。そしてそれは仏教というような宗教などの形式を超えた人としての思い、命は一つしかないことの思いではなかったのか。そうした思いは死者の肉を食べるという残酷の極みを超えるような儀式にだって未開の野蛮さを超えて伝わってくる。

 蟹の供養は150万匹である。しかしそれは供養という言葉とは裏腹に150万匹の売り上げがあったこと、150万匹がお客さんの腹に入ったことの証左にしか過ぎないのではないかと私は思い、それが例えば200万になったところで、経営者に商売繁盛の笑顔が浮かぶことがあるとしても、それが200万の命の理解につながるなどとは到底思えないのである。

 坊主だってそうである。そのお経を全部聞いて理解したわけではないけれど、もしかしたら読経のなかに蟹の150万という言葉が入っていたかも知れない。でもそれはそれだけの話なのではないのか。150万の蟹の命に対して坊主は一体何を考えて供養を引き受け、金糸銀糸の僧衣に包まれて読経していたのだろうか。むしろ蟹の命などなんにも考えていなかったのではないだろうか。

 死は日常である。衣も食も住も生活そのものから死を分かつことなどできはしない。数え切れないほどの死の日常の上に我々の生活は成り立っている。

 それでもやっぱり命は一つであり、失われた命に代わりはないんだということをどこかできちんと理解しておかないと人は命の意味さえ忘れてしまう、そんな気がしてならないのである。なぜか現代がそこまで切羽詰ってきているような気がしてならないのである。




                     2005.11.09    佐々木利夫



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