温和でやさしいおじいちゃんである。看護師の皆さんはそのおじいちゃんのことを親しみを込めて苗字ではなく「まんとくさん」と呼ぶのである。もちろん看護師さんたちはもともと優しいから、彼女たちの言い分に逆らったり喧嘩したりすることはないのだが、それでも「まんとくさん」はけっして口答えすることなく、素直に言うことを聞いてくれるのである。それじゃあ看護師の言いなりではないかと言うかも知れないけれど、それとはちょっと違う。厭々従うというのではなく、ちゃんとわかっていて素直に聞くのである。
 自分から積極的に話をするというのではないけれど、いつもニコニコと話しかけられたことにゆっくりと答えるのである。

 看護師さんにごま塩のひげを剃ってもらって、「いい男になったよ」と誉められてとても嬉しそうである。食事は食べるのがとても遅く食べ終わるのに周りの2倍くらいかかるけれど、それでもゆっくりゆっくり静かにおいしそうに食べるのである。

 これまでどんな生活を送ってきたのかは想像するしかないが、顔の皺や日焼けの状況、話し方などから感じたところではサラリーマンのイメージはない。おそらく長い間農業に従事してきたのではないだろうかと思える。

 私が気になっているのは、彼の人柄である。そして思うのである。きっと平凡だけれどいい人生を送ってきたのだろうなと・・・。それは顔がそうだからである。食事のスピードがゆっくりしているからである。静かな話し方がそうだからである。顔つきや話し方がその人の生き方とどんな関わりがあるのか私は証明する術を知らない。それでも70歳を超えた顔作りは否応無くやっぱりその人その人の人生なのではないかと思うのである

 そしてもっと気になるのは、彼の年齢に届くまでに私には7年しか残されていないことである。世は挙げて高齢化社会へと向かっている。少子高齢化は現在の出生率と人口ピラミッドのデータさえあれば、誰にでも容易に推測できる間違いようのない事実である。
 その老人社会の渦中にある私としては、自分がどんな老人になるかは実は大きな問題なのである。老人社会のなかで自分の居場所と言うか落ち着ける空間をどこにどういう風に見つけるかはとても大切なテーマなのである。

 そうした老いの一つの形を私は「まんとくさん」に見たような気がした。彼がすべての面で満点の老人だとは思わない。100人の老人が居れば100人の老人それぞれがそれぞれの過去を背負って生きてきたであろうことは当たり前のことだし、そのことに豪も疑問はない。ただ、その生きている今の老後としてのスタイルを、人はどこかであらかじめ選択することができるのではないだろうかと、ふと感じたのである。

 それは、「嫌われないおじいちゃん」のスタイルである。「嫌われないおじいちゃん、おばあちゃん」と言うのは、表現としてはしごく当たり前で平凡なのだが、どこかとても大切なキーワードとしての位置づけにあるのではないかと思ったのである。

 昔から「年寄りの冷や水」と言い、「老いては子に従え」などと言われてきた。長く生きてきたことが、知識を自動的に知恵に変えていくとは思わない。「三つ子の魂百まで」とも言われるように、人はなかなか変えられないものだということも十分分かっているつもりである。それでも自らの老いの自覚を促し、世代交代への承認を求めた先人の言葉は、老人が厄介者であるという発想ではなく、自然な流れを逆らわずに承認することの必要を伝えているのではないかと思うのである。

 だからと言って「嫌われないこと」が卑屈であったり隷属である必要はないだろう。そのためには矢張り自立する意思みたいなものが必要になる。少なくとも生活できるだけの資力が必要だろうし、それがどの程度社会的に承認されるかどうかは難しいところだけれど、相応の趣味なり生きがいみたいなものも必要になるだろう。それらはまさしく自分の歴史である。

 老人になることだけが人生の目的ではないけれど、時という怪物は容赦なく加齢と言う土産を落としていく。そしてそれを拒むことなど誰にも許されないのだから、だとすればその事実を年輪と言う財産に変えてしまうのも一つの手である。そうした意味で、その財産の価値を「嫌われないじいさんばあさん」という基準で測定するのもそれほど的外れな話ではないのではないだろうか。

 「嫌われないこと」は「好きになってもらうこと」ではない。気詰まりとか、窮屈とか、息苦しいとか、そんな不自然さを感じさせない存在を言うのである。私はそれを「まんとくさん」に見ることができ、そして感じることができた。そこに居るだけでその場の空気が自然に和んでいくような、そんな人なのである。そこに居たからと言って、彼がのべつくまなく自分をアピールしているのではない。むしろ、なんにも話さないことでいいのである。そこに「まんとくさんがいる」だけでこっちが本を読んでいてもいいのである。彼の食事の世話を誰かがしているのを傍目でそれとなく感じているだけでいいのである。見舞いに来た人と話している空気がさりげなく流れてくるだけでいいのである。それだけで病室の空気が和むのである。

 その原因が何なのか、どうして和むのか色々考えたのだけれど必ずしも分からない。トータルの人格がそうさせるのだと、抽象的には言えるかも知れないけれど同時にそれでは答えになっていないないことも分かる。
 恐らくそれは、希望してなれるものではないだろうが、かと言って希望しなければこれもまた永遠に手の届かないものではないだろうかとも感じるのである。

 希望して実現せず、希望しなければなおのこと実現しない。私はここでこの二律背反にはたと戸惑ってしまう。しかしながら、だからと言ってそうした「まんとくさん状況」を結果論であり運命であると決め付けて努力もなにもしないことの言い訳にしてしまうのも癪である。

 極端に言ってしまえば、まんとくさんになるためには72年間と言うまんとく人生が必要なのかも知れない。だとすればそのこと自体私に適用することは不可能なのだが、例えば「怒(いか)らないこと」一つとっても努力することで実現可能なのではないかと思うのである。
 瞬間湯沸かし器と呼ばれる人がいるように、なんでもかんでも逆鱗に触れられたかのように怒り出すのは本当に厄介である。一度自分の中に相手の言い分を反芻させるという努力が必要なのだと思う。その反芻を、「間(ま)」と呼ぶか、はたまた「一呼吸置く」と呼ぶべきかはまさに人様々だと思うけれど、このことだけでも人は変ることができると思うのである。

 街角のご隠居さんにはご意見番の役割が与えられていたけれど、今はそんな場面はなくなった。せめて「怒らないこと」を身の内に蓄えることで、諍いから離れたゆったりとした人生を送ることができるのではないだろうか。

 こんな風に考えている内に、まんとくさんになるための秘訣はたったひとつ、「ゆっくり」にあるのではないかと気づいた。早いこと効率的なことが正義だと教えられ、スピード至上主義の生活を長い間送ってきたのだから、いまさら「ゆっくり」と言われてもおいそれとはついていけないとは思う。

 しかしながら、「ゆっくり人生」を自分自身に仕掛けていくことで、少しずつ「まんとく効果」が得られていくのではないか、そして「憎まれないじいさんばあさん」への道筋が見えてくるのではないかと思いつつ、灯りの消えた無機質な病室の天井を眺めながら、まずはこのへそ曲がりをなんとかしなくちゃと、男は今の自分を自信なさそうに見つめているのである。


                            2005.08.25    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ


まんとくさん
  

 入院していたとき(思いつくままに平17・我がミニ闘病記参照)、同じ病室に72歳のおじいちゃんがいた。どこか札幌近郊の病院から転院してきたらしい小柄ないかにもおじいちゃん然とした人である。もちろん私はその人のことをなんにも知らしないし、彼だって私のことなど知る由もない。恐らくはこの病室を離れることで彼とは生涯無関係なままになってしまうのだろうし、名前だって「万徳」と書いて「ミツノリ」とでも読むのだろうか、そんなことすら知らない全くの他人である。