インターネットの落とし穴
  
 気ままにしろ自分なりの意見をまとめるということは、どうしたってその意見の基となるテーマを抽象化してしまうことから避けることはできない。
 そうした抽象化の過程は、つまるところ語ろうとする人間の好みもあるだろうし、これから述べようとする意見と調和するように事前に予定して構成されるところも多いだろうから、そこんところは少し距離をおいて考える必要があるだろう。

 以下は、そんなことを分かった上での私の思いつきみたいな話しであるが、ものごとをあんまりストレートに自分流に定義づけてしまうと、逆に本質から乖離してしまうのではないかと思えるような場面にぶつかってしまった。

 インターネットが家庭にまでどんどん普及し、しかもその利用端末はパソコンから携帯電話へと裾野を広げていっている。その上、携帯を持つのは大人だけではなく小中学生にまで広がっている。
 一方、携帯電話の特性はその閉鎖性にあると言ってもいいから、子供とネットの影響を心配する風潮が広がることはむしろ必然かもしれない。

 そこで識者はこんな風に現状を分析し、テレビで見解を発表する。

 昔は、悪い大人が子供に例えば電話にしろ伝言にしろ、なんらかのメッセージを伝えようとする場合には、そこに親(保護者)たる大人の仲介なしには実現しなかった。
 しかし、現代のインターネット世界では、そうした保護者のフィルターなしに、直接悪い大人から子供へのメッセージが届いてしまい、そのことが保護者のコントロールなしに子供が暴走する要因になっている。


 なるほど、なるほど、良く分かる考えである。
 だがこの抽象化した考えは、分かりやすく見える分だけ、実はとんでもない誤りを含んでいるのではないかと思えてならないのである。

 この識者の見解における基本的な筋道の第一は、保護者のコントロールの絶対的信頼性である。「昔は全部の情報が保護者を通して子供に伝えられたから、決して誤った情報が子供に伝えられることはなかった」とする、絶対無比な信仰である。

 そして基本的な考えの第二は、子供は保護者のコントロールに必ず従っていたのだとする、親の権威の絶対的な優越性と実効性である。

 そして更に第三は、情報の発信源をすべて「悪い大人」としてしまっていることである。

 つまり、「悪い大人」→「保護者」→「子供」という情報の流れを設定し、その基本である三つの構成要素それぞれについて、頑ななまでにある定まった固定観念を植えつけ、その上で識者の望む特定の結論を導き出そうとしているのである。

 細かく論証する必要はないであろう。保護者が時に、「善意」にしろはたまた「故意」や「無責任」にしろ、保護者としての役割を果たしていない例は古今を通じたところでそんなに珍しいことではない。現代はむしろ保護者とは何かが問われている時代であり、保護者自らが過保護になってその権能を放棄している時代でもあると思われるからである。

 保護者が大人として自立しないまま、むしろ「子供の友達」として存在しているかのような現代で、果たして保護者としての確立したフィルターを自ら持ち得ていると言えるのだろうか。

 娘が高校生だったころ、その学校の夏休みの生徒向けの連絡帳に、こんな文章があった。

 「けじめ」とは、
 「やりたくなくとも、しなければならぬことはきちっとする」
 「やりたくとも、してはいけないことは絶対にしない」
 ということです。

 なぜか私はこの言葉が大好きになった。そしてカードに書きとめつつ、思ったのである。そうした基本的な考えを、大人は子供に伝えていくだけでいいのではないだろうか・・・・と。

 昔は保護者が子供に伝わる情報のすべてをコントロールできただなんて、思い込みも度が過ぎてしまっているのではないだろうか。

 そして第二の子供の従属性にも納得できないものがあった。子供は大人の権威に疑問を持つことで成長してきたのである。大人の言うがままにコピーになることでは決して自立する大人にはなれなかったのだし、権威、強制なんでもいい、そうした外からの力を自分の内で疑問視するところから、自分を確立してきたのではなかったのか。

 もちろん親や大人の指示や権威に唯々諾々と従うことで、いわゆる予定されたレールの上を走ることの気楽さを味わえる場合もあるだろう。
 しかしそれは自分の道ではない。レールの途切れたときに、その人間は途方にくれるのみである。コンビニやスーパーのバイトのマニュアル本で済む話はない。自分の人生を他人の作ったマニュアルで走ってきた者にとって、そこはまさしく崖っぷちである。

 そして第三の保護者の知らない情報の発信源はすべて悪だと決めつけることの不合理性である。さまざまな情報を、子供は子供なりに得ていく。友達から、先輩から、読書から、映画やテレビから、親や先生や近所の人たちから、子供は知識を得ていく。

 正義や善の情報ばかりではない。玉石混交の情報の中から、子供は自ら判断することを学んでいくのである。善意ばかりの純粋培養の中で育つのは、まさに抵抗力のない無菌室の人生である。そこで育つのは、僅かの雑菌で脆くも破壊されてしまう脆弱な精神と肉体である。

 さて、こうした事実を先ほどの識者の論述パターンに当てはめてみよう。情報の発信源といえども正義から悪まで何段階にも分かれるだろう。保護者がすべてを仲介するとしても、そのフィルターの性能には様々なものがあるだろう。そして、受け手の子供にだって、その情報を受け止める様々な要素があるはずである。

 そうした無数とも言える多様な組み合わせの様々を、この識者のようにたった一本の線で単純に描いてしまうのだとしたら、そんなストーリーは、決して一般論にはなりえない、例外中の例外でしかないであろう。

 確かに昔は例えば電話のない家庭が多かったし、仮にあったとしても誰でもが目に付く場所に固定されていた。だから、仕事や学校からの共用的な用件だろうとプライベートな私信だろうと、電話のある場所で話をするしかなかったし、それ以前にかかってきた電話に最初に出るのは大人であり、それを取り次ぐことじたいからマナーとして掛けてきた相手が自らの身分を明かすことが求められていたという背景がある。

 しかし、だからといってそのことが子供に伝わる情報のコントロールになっていたなんてどうして思い込むことができるだろうか。

 「けじめ」については先に述べた。大人の役割は、情報のコントロールではなくて、子供が自分で判断できるような素地を学ばせることなのである。
 それは決して難しいことではない。大人の自分がどう生きてきたかを示すだけでいいのである。誰からも賞賛されることはなく、スターのように栄光に輝くことがなかったとしても、当たり前のことを当たり前に努力してきたそのことを、示すだけでいいのである。

 それを歴史は「大人の背中」と呼んだのである。見かけ上格好が良くなくっても、自分の人生を真剣に生きてきたことが大人の背中なのである。子供はそれを必ず理解するはずである。「普通の人」の普通の努力が世の中を支えてきたことを理解するはずである。

 果たしてそのことを実践してきたかと自らに問うた時、気恥ずかしさが先にたつことは事実なのだけれど、それでもこうしてひとりの事務所で静かに過ぎこし方の思いにふけるのも時にはいいもんである。




                       
2005年03月06日    佐々木利夫


           
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