読み終えてまず感じたのは、「浮舟」が源氏物語の最後の宇治十帖で、薫と匂宮という二人の男性に愛されるヒロイン「浮舟」を意識したものだということだった(別稿「勝手に源氏物語・浮舟」を参照してください)。
そしてそれと同時に、二番目の「卒塔婆小町」が、内容はともかくタイトルそのものがどこかで見たような気がしてならなかった。
古典についてそれほど詳しくない私だから当たり前のことかも知れないけれど、どうも卒塔婆小町という名が、例えば平家物語とか徒然草といったような具体的なタイトルとして頭に浮かんでこない。しかしさりながら、どこかで聞いたようなもどかしさがいつまでも残っていて、気になって仕方がない。それでもしかしたら、歌舞伎か謡曲などにないだろうかと、私の数少ない古典関連の蔵書を漁ってみた。
わりと手軽に見つかった。このタイトルと同名の作品が、書棚の奥で忘れられていた「謡曲・狂言・歌舞伎集」(河出書房新社)という本の中に、謡曲、つまり能の歌本として収録されていたのを発見した。
それなり著名な作品らしいことは、このわたしの蔵書の中にあり、謡曲として選定された数点の作品の中の一つとされていたことでも分かる。しかしなんといっても「能」である。薪能だの観世流だの、かけらみたいな僅かな知識としては持っていても、とてもじゃないが鑑賞に挑戦するだけの能力はさらさら覚束ない。
ともあれ自分の蔵書である。ぺらぺらめくってみたら、せいぜい10ページ程度のとても短い作品である。これも何かの縁である。能の鑑賞というには覚束なくとも、作品を読むというレベルくらいには向き合うことができるだろう。
「卒塔婆」とは死者の供養や追善のため、墓などに立てる塔の形に切り込みを入れた細長い板である。朽ち果ててそれとは分からぬまでになっているその卒塔婆へ、乞食の老女が知らずに腰掛けるところからこの能は始まる。
そしてこの老女こそ、この世に並ぶ者なき美女と称えられた小野小町の百歳の凋落した姿なのである。
小野小町がどこまで実在した人物なのかどうか私は知らない。しかし、こんなにもとてつもない物語の構想を考え出した観阿弥という人物は、一体何者なのだろうか。
美女をテーマとした物語は、恐らく世界に限りなくあるだろう。美を称え、美に溺れ、男と女の物語の多くは、今でも美を巡るものである。例外なくとは言えないだろうが、映画も演劇も小説も、その多くが美しい女を絡めて進んでいく。
なのにこの物語はどうだ。乞食になった百歳の老女の物語である。しかも、今となってはその面影すらないかつての絶世の美女の成れの果ての昔の恋の物語である。
だがしかしこの物語は、読むにつれ素晴らしい愛の物語を紡ぎだすのである。
卒塔婆に腰掛けた非をなじる高野山の僧に向かい、老女はあたかも挑戦でもするようにこんな風に問いかける。卒塔婆という形だけのものをどうして尊ばねばならないのか。人は決心一つで心の中に救いを求めることができるではないか。心でこそ人は世界を感じることができるのではないか。釈迦を殺そうとした人も、愚かしい弟子も、めぐりめぐってみれば結局は善ではないのか。絶ちがたい浮世への煩悩も、つまるところは求道への前提なのだから・・・・と。
このあたりの僧との問答は、見かけや形式に権威づけられている世の中の常識に対する痛烈な批判となって、かなり理屈っぽい構成ながら聞く人に十分な説得力を与えてくれる。それはまたもしかすると、かつての己の美と今の老残とのあまりにも大きすぎる隔たりに対する自身への憤りなのかも知れない。
問われるままに老女は僧に自らの名を明かし、かつて、世の中のすべてを美貌で割り切った己の過去を語りはじめる。そして落ちぶれ果てて物乞いとなり、狂乱し、声まで変わってしまった百歳の今を恥じる。
語り始めた彼女にやがて一人の男の死霊がとりつく。彼女への想いを募らせ、焦がれ死にした深草の少将の霊である。老女は烏帽子をつけ狩衣をまとった男姿となる。
地謡は深草の少将の心を謡い、男姿となった老女は過ぎ去ったかつての小町の心を謡う。
男は小町を責める。
「行っては帰り、帰っては行く。一日も欠かさず私はあなたのもとへ通った。毎日毎日、月の夜も、闇の夜も、雨も風も、秋の木の葉、冬の雪、一目すら会えないままに私の恋路は続いた。この無駄と思える努力も百夜通えばこそと思いつめ通った。なのに僅か一夜を残して私は死んだ。」
小町は男の思いにただ目まいして苦しむのみである。
二つの対立した心を持つ小町は、やがて男を受けいれるようになる。百歳にして始めて理解した男の心である。彼女を美しいと言った男は数限りなくいたけれど、今はそのすべてが死んでしまった。そのことが彼女を打ちのめし、切ないまでに思いつめた男の恋を理解する。
老女は、「どんな苦難を忍んでもいい、砂を一粒一粒集めて塔を作る努力をすることで仏を信じ、悟りの道に入ろう」と決心するところで、この能は終わる。
美しいとは一体何なのか、年をとるということは何なのか、そして見かけに惑わされる人の心の奥に潜む矛盾を、この物語は教えてくれる。
「花のいろは、うつりにけりな、いたずらに、 わが身世にふる、ながめせしまに」
百人一首にある小野小町の作品である。卒塔婆小町の物語とこの歌とは何の関係もないと思うけれど、こうして百歳の老女を追いかけてきてみると、小野小町もまた、己の容色の衰えをどこかで予感していたような、そんな気がしてくる。
能の小町に会ってみたい・・・・・、ふと感じた今日だった。
2005.05.03 佐々木利夫
続編も発表しましたので訪ねてください(別稿「
卒塔婆小町後日談」)。
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