英会話の番組が好きなわけでも、外国語の勉強をしょうと思っているのでもないけれど、テレビを見ていてどのチャンネルを回してもスポーツばっかりという時間帯が時々あって、そんなときにはテレビを消してしまえばいいようなものだけれど、無意識になんでもいいやと教育テレビに回してしまう癖がついている。
まあこれも、テレビに毒されている症状の一つなのかも知れない。
そんなことが何度か重なっていくうちに、なんとなく変だなと思えるような現象にぶつかってしまった。
つい先日の英会話講座である。日本人が外国でトイレを貸して欲しい状況になった場合、どんな風に話しかけたらいいのかという設定である。
この番組を選んだ動機自体が先に述べたようにいい加減なものだから、一生懸命見ていたと言うわけではない。だから、正確ではないと思うのだけれど、「トイレを貸して欲しい」を「トイレ、レンド」と話したというのである。
そこへ英会話の達人と称する人物の大笑いによる登場である。
「トイレ」という語には場所というよりは便器そのもののイメージが強い。「レンド」には借りるという意味はあるものの、感覚としては「借りて持ち帰る」という意味に使う。だから、「トイレ、レンド」という言葉は、便器そのものを借りて持ち帰るという意味にとられてしまうというのである。そして出演者全員の大笑いへと続く。
英会話講座なのだから、正しい英語の使い方を教える必要があるだろう。そうした意味でこの解説は、日常会話における正しい英語の説明としては正しいのかも知れない。
でもこの解説者の大笑いにはどこか抵抗が残った。相手の間違いを笑うという姿勢には、どこか勝者の驕りみたいな不遜な匂いが感じられてならなかったのである。
この「トイレ・レンド」という言葉がまるで通じないで、相手に本当に便器を持ち帰るというように受け取られてしまって、トイレを借りたいという緊急の要件が少しも通じなかったというのなら解説者の意見も分からなくはない。
しかし、本当にそうなのだろうか。英語を十分に話せない外国人が「トイレ・レンド」と話しかけ、その言葉を聞いた人が、「トイレ」という言葉を便器という意味にしろ聞き取ることができ、かつ「レンド」の意味を、日常的には持ち帰るという意味を含んでいるにしろ「借りる」という意味として理解ができたにもかかわらず、発言者の緊急の要件を理解できないというのは本当なのだろうか。
もしそうなら、通じない英語の発言者を責めるべきかも知れないが、受け手の理解力、想像力というのはこれしきのものなのだとするなら、なんだかとても悲しいのである。
そして同時に私には、どうしてもこの「トイレ・レンド」という言葉だけで発言者の意図が通じないとは思えないのである。「トイレ」の一言だけでだって十分に通じると思うのである。
だから私にはこの解説者のしたり顔の大笑いが許せないのである。番組を盛り上げるための作為であり、ほんのジョークだよと言いたいのならその気持ちも分からないではない。恐らく軽い気持ちの、正答へ至るまでのお遊びだったというならそれも理解できなくはない。
でも無知を笑うという姿勢はやっぱり許せないと思うのである。誤りを正すことはいい。発言の意図が仮に通じたからと言って、間違ったままを覚えこむことは更に大きな過ちにもつながることであり、正しい英会話の理解を伝えることこそがこの番組の目的なのだろうから、しっかりとした正答を教えることは大切なことである。
こうした設定に類似した番組の作り方は、外国語講座には結構目立つものがある。ホテルのフロントで外貨の両替ができない、バスの行き先を聞いているのに通じない。
宇宙人が宇宙語で聞いているのではない。そうした場合の設定の多くは、類似しているが適切な単語の選択ができていないために発言者の意図が伝わらない、動詞の使い方が間違っていて誤解されてしまうという形をとる。
私には、プロであるべきホテルのフロントマンが、これしきの会話すら理解できないのだろうかと思う前に、この番組の作り方そのものに「そんな馬鹿なことがあるものか」と思ってしまうのである。
無知を笑うことは、決してユーモアにはならない、どんなに加工してもジョークにはなり得ない、そんなふうに私は頑なに信じ込み、それほど見る気もないままに写っている番組にまで、暇なへそ曲がりは何かと小理屈をつけたがっているのである。
そして今日の教育テレビ、外国人に対する日本語講座である。
「例の件よろしく・・・・・」の解説で、講師は「例の件とは以前に話があって互いに共通して理解している話題を指す」と説明し、「こんな風な会話は聞いたことない?」と生徒に尋ねる。
生徒はこんな風に答える。「ああ、良くありますね。なるほどそういう意味だったんですね・・・」。
なんとこの社会人の生徒は、こうした会話、つまり「例の件」を含む会話を「良くありますね」と感ずるほど繰り返していながら、その意味するところを全く知らなかったと言う設定である。
「例の件」という語は通常、会話の中でしか使われないと思われるから、この生徒の答えはまさに何度にもわたる会話が、その基本となるテーマについて話しかけたほうは理解されていると信じ、話しかけられたほうはまるで理解していないままに進んでいったという状況を伝えているのである。
またしても私は「そんな馬鹿な」と思ってしまい、大体外国語講座というのは、「正しい語法を教える」なんぞという大義名分にばかり振り回されて、肝心の「意思を通じあうための会話」という側面がなんともおろそかにされているように思えてならないのである。
しかも、「例の件」などという用法は、日本語講座として教える必要があるほど日本人間にだって普及しているとはとても思えないと私は考え、こんな風なしたり顔の「やらせ」みたいな思い上がりの手法はテレビ番組のいたるところに見られる・・・・などと、これまた暇な老税理士は勝手に憤慨しているのである。
2005.02.19 佐々木利夫
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