源氏物語に触れるたびに、日本語の感性の豊かさやしっとりとした味わいに改めて気づかされる。そうしたチャンスはこの物語の様々な場面に感じることができるけれど、私の場合、言葉として真っ先に浮かんでくるのがこの「空蝉」という語である。
 これから源氏物語で空蝉と呼ばれる女について書いてみたいと思っているのだが、そのこととは別に、「空蝉」という文字、そしてそれを「うつせみ」と呼ぶそのこと自体に、なぜかしっとりとした日本語の優しさを感じてしまう。

 空蝉とは蝉の抜け殻のことである。春から夏にかけて、7年とも10年とも言われる地中生活から解放された幼虫は、山や公園の木々を足場に脱皮して、生存期間十日前後の短い時間を成虫として過ごし、子孫を残すためにだけ狂奔する。
 木々の枝に残されたその抜け殻は、あるじを失った命無き存在ではあるけれど、それでもなお木立にしっかりとしがみついたまま、薄茶色で半透明の姿を風にさらしている。

 この女は人妻である。彼女が空蝉と呼ばれているのは、忍んできた源氏の気配を察して蝉の抜け殻のように着物一枚を残したまま部屋から消えてしまったことからきている。
 残された着物を持ち帰り、その着物に遂げられなかった想いをつのらせる源氏、持ち去られた着物に我が身を重ねてしまう女、人妻との許されない恋の行方はまさに空蝉のようにはかなく、途方に暮れた思いの中に漂うばかりである。

 女は衛門督(えもんのかみ、天皇の住居の警備をつかさどる側近の長)の娘で、身分としては高い。健在であれば父親は大納言か大臣という出世コースをたどったはずであり、彼女には宮仕えの話もあったのだから場合によっては帝の寵愛を受けて皇子なり皇女なりをもうけていたかも知れないのである。だからそうであるとすれば仮定に仮定を重ねることになるけれども、栄華を極めた生活も夢ではなかったはずである。
 だがしかし、そうした夢のような未来は両親が若くしてなくなったことで幻と消え、後ろ盾を失った彼女は初婚ながら伊予(つまり今の愛媛)の受領(ずりょう、地方官)である伊予介の後妻という身に甘んじることでかろうじて路頭に迷うことから避けることができている。

 源氏物語の中でも特に有名な「雨夜の品定め」(帚木・ははきぎ)の話題の中で、源氏とその仲間は女を上流、中流、下流に分けこんなふうに語りだす。上流の女は完成されていて隙がなく面白みがない、下流の女はそもそも我々とは無縁だ、なんといっても付き合って面白いのは中流である・・・・。

 源氏17歳、既に12歳にして左大臣の娘である正妻葵上と結婚しているし、それに続く女性遍歴は限りない。だが、まだ源氏は現実の恋を知らない。義母藤壺への狂おしい思いは生母桐壷の更衣の思い出につながるものであったし、正妻葵上も前皇太子の未亡人である六条御息所も教養はあるものの自分の感情など表に出すことのないまさに上流の女である。

 本当の女との真剣な恋がしたい、源氏は仲間が話している「雨夜の品定め」の中で突然にそう思う。そしてそのチャンスは早くも翌日にやってくる。葵上の館で鬱々としている源氏のもとへ、女房たちが今日のこの館は方角が悪いから片違えが必要だと報らせてきたのだ。
 方違いとは、陰陽道で方角が悪い場所へ向かうときは一時的に吉の方角を経由することで、この当時真剣に守られていた風習である。気位の高い葵上の住むこの気まずい家からなんとか逃れる方法はないものかと思っていた源氏にとって、なんと具合のいい話であろうか。

 方違いには誰の屋敷が適当だろうか。あちこち捜すうちに女房たちが源氏の家来で紀伊(今の和歌山県)の地方官である紀伊守の家を見つけ出す。
 紀伊守は空蝉が後妻に行った伊予介の先妻との間にできた息子である。紀伊守にしてみれば空蝉は自分よりも若いけれど義母である。かつての身分のいい家の女が今は一介の地方官の後妻に落ちていることを源氏は女房たちの噂で聞いている。彼女こそ中流の女である。しかも現在は夫の家の物忌みで紀伊守の屋敷に滞在しているというではないか。

 突然の宿の指名で源氏を接待することにはしゃいでいる紀伊守だが、源氏の思いは始めから別のところにある。そしてその夜、不意打ちに女の抵抗は激しかったけれどことは源氏の思い通りに進む。

 だが女は源氏のそうした人妻にまで軽々しく恋を仕掛ける特権階級の思い上がりを責める。恋に階級などありはしないという源氏の説得にも女は心を開こうとしない。頑なな女の気持ちに、源氏の思いはいつしか本物の恋へと変っていく。
 それにもかかわらず、どんなに心を込めて呼びかけても、女は源氏とのかの日のできごとを許そうとはしない。源氏の態度は「鬼神も荒立つまじき(神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろう〜与謝野晶子訳)」ほど(帚木)の優しさであるが、それでも女が心を開くことはなかった。

 女は理解している。どんなに源氏が真剣だと言ったところで、今の私と源氏とでは余りにも身分が違い過ぎる。そんなこの身が源氏を慕ってみたところで結果は余りにも明白である。源氏への気持ちの昂ぶりはやがてそのまま絶望へと結びついていくことだろう。人妻であることの礼節よりも、源氏の気まぐれのほうが恐ろしいと女は思う。

 心を閉ざしたままの女に、源氏は一つの策略を思いつく。女の弟(小君)を小間使いとして雇うという方法である。しかも源氏はこの小君を愛撫しながら空蝉を思うのである。小さな従者の体のみならず心までがんじからめにしつつ空蝉を囲い込もうとするこのあたりの作戦は、権力者としての源氏の傲慢さがあからさまに出ている場面であるが、あえてそうした源氏の厭な面についても隠さず表すところに紫式部の豊かな才能を見ることができる。

 これまでどんなにか小君に手紙を託して思いを伝えたことだろうか。つのる思いとは裏腹に空蝉の気持ちは頑なまま振り向いてくれようとはしない。伝わらぬ思い、届かぬ心、これこそが恋だと、源氏の心はひたすらに空蝉へと向かっていく。

 ここで物語りは帚木から次巻の空蝉へと移る。
 空蝉の夫、伊予介はすでに単身赴任中であり、義理の息子紀伊守も任地へ行った。屋敷は女だけになっている。今こそ好機である。小君の手引きで源氏は空蝉の屋敷へと忍び込む。空蝉は伊予介の娘であり紀伊守の妹でもある軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打っていたがやがて夜が更け二人は部屋へと戻っていった。

 源氏は闇に紛れて空蝉の部屋へ忍び込む。衣服に焚き染めた香の匂いや衣擦れの音から、源氏の気配を察した空蝉は、薄衣の小袿(こうちぎ、肌着と表衣の間に着る内着)一枚を残したままそっと部屋を抜け出す。

 それとは知らぬ源氏は横たわっている軒端荻を空蝉と間違えて抱きしめ、やがて様子が違うことに気づくけれど、そこは源氏である。若くてグラマーな軒端荻へかねてから思いを寄せていたと取り繕いの言葉を囁きつつ一夜を共にする。

 空蝉はそうした事実を近くの部屋で眠れぬままに知っていたはずである。幾度もの愛の手紙の後に自分を訪ねてきた男を嬉しいと思いつつ拒否し、しかも義理の娘と結ばれたことを、同じ屋敷の恐らくはそれほど離れてはいないであろう別の部屋に身を潜めつつ知っていたはずである。空蝉の苦悩に作者は触れてはいないけれど、行間には切ないほどの思いが込められている。

 それにしてもこれほどまでに突き放された恋を源氏はまだ知らない。拒否された心はなお更に空蝉を求め続ける。残された小袿は蝉の抜け殻にしか過ぎないけれどあるじの面影をしっかりと残しているたった一つの形であり証である。

 源氏は空蝉へこんな歌を送る。

     空蝉の身をかえてける木のもとに
          なお人がらのなつかしきか


    あなたの残した着物を持ち帰りました。姿が変っても、思う人の面影がしのばれます。

 女が空蝉と呼ばれるのはこの歌からきている。しかし、女は人妻としての操を守るために源氏を拒否し続けたのではなかった。夫持つ身の垣根は確かに高く堅固である。しかしこんなにも熱心に思いを寄せてくれる男の存在は、そうした垣根をなんと脆いものにしてしまうことだろう。それでも彼女は源氏との仲が、あまりにも違う身分の隔たりから、やがて確実に破局という形で訪れるであろうことを予感していた。

 破局は始めから分かっている。ならば私は揺れてはいけない、流されてはいけない。そう覚悟を決めたはずなのに、自分の体臭の染みた着物を抱いている源氏の姿を思うだけで、こんなにも心が騒ぐのはどうしたことなのだろうか。
 「もう少し私が若かったら、せめて結婚する前に出会えていたならば・・・・・、逃げてばかりいると、思い上がった女だと思われはしないだろうか・・・・」。揺れる女の心はすでに源氏を受け入れているが、一方で今の己の立場にたじろぐばかりである。

 女は源氏から受け取った歌の余白にこんなふうに書き添える。

     うつせみの羽(は)に置く露の木隠れて
                忍び忍びに濡るる袖かな


     蝉の抜け殻の羽に置かれた露のように、私は木陰に隠れあなたへの恋に泣いています

 だがその返歌を空蝉は源氏に送ろうとはしない。女は源氏に恋しつつ、決してその本心を知られないようあくまでも源氏を拒否し続けるのである。

 時は過ぎ、源氏は右大臣派との権力闘争に敗れて須磨、明石へと流され、そして三年有余の後に都へと復帰する。そんなある日、源氏は琵琶湖に程近い石山寺へ参詣する途中の逢坂の関で偶然に空蝉の一行と出会う。夫(かつての伊予介、現在は常陸介、茨城県の地方官)の任期明けで京へ戻る途中のできごとであった(関屋)。
 源氏はまたしても彼女に向けてかなわぬ恋の嘆きを歌に託して送る。しかしその文に遠い感慨にふける空蝉であるが、それでもかつての決心の変ることはない。都に戻って間もなく、夫は息子たちに空蝉を大切にするように遺言して亡くなるが、義母に優しくしてくれる子供たちではなかった。ただ一人かつての紀伊守(現在は河内守)だけが優しく接してくれるけれどそれとても自分の女になれと言い寄ってくるための口実にしか過ぎない。このあからさまな口説きを拒むためにはどうすればいいのだろうか。悩んだ女は出家することにその答えを見出す(関屋)。

 出家した者と男女の関係にならないことはこの当時の当然のしきたりであった。だから、出家したことで源氏と空蝉との縁は切れたはずである。だとするなら空蝉との物語はここで終わってもいいのだろうと思う。ところが、源氏がもっとも力強く華やかに描かれる六条院での生活の場面で、出家した空蝉は二条東院で末摘花(別稿参照)とともに源氏の庇護を受けていることが分かる(初音)。
 これもまた女の一生であったといえるだろう。空蝉は結局、源氏17歳のただ一度の出会いを除いて肌を合わせることはなかったが、別の意味では生涯を源氏と共に過ごしたとも言えるのである。

 心に熱い気持ちを秘めたまま、それを相手に伝えることもなく生涯を貫き通した女。果たして空蝉は貞淑な女だったのか、それともみだらな女として非難されるべきなのか。肉体も精神も、共に裏切りの対象ではあるけれど、この物語の読者はいづれに裏切りの重さの違いを感じたことだろうか。いつの世も男と女の世界は、他人には決してうかがい知ることのできない闇の中にひっそりと閉ざされているものなのかも知れない。それらはまさに人の心の世界なのだから。

 出家の世界がどんなものなのか私は知らない。だがしかし、出家が男女とも一つの生きるための道であり、多くの貴族の望んだ世界でもあったことを思うとき、空蝉もまた幸せな女だったのではないかと私は感じているのである。



                        2005.08.30    佐々木利夫


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空蝉(うつせみ)