過保護に馴れて他人に責任をなすりつけ、安全や平穏が当たり前のことで、それを当たり前のこととして設定するのが国家であり社会であると、人はいつからそんな風に思い込むようになってしまったのだろう。

 「いたれりつくせり」は平穏であるとか安心と言った環境にどっぷりとつかっていられる状態を示しているのかも知れないけれど、もしかすると不幸を知る貴重なチャンスを放棄させられているとんでもない世界なのではないだろうかと思うことがある。
 逆説めくけれど、ひもじさが腹いっぱいになることの幸せを教えてくれたように、不幸を知ることこそが幸福を味わうことのできる原点になれるのではないだろうかと、このごろ感ずることが多くなった。

 「倖せを感ずる能力は、不幸の中でしか育たない」(曽野綾子、平12年4月週刊ポスト)なんて識者の言葉を借りるまでもなく、こんな少女の詩にだって幸せとは何かの入り口をしみじみと感ずることができる。


  
病気したおかげで、
  人はずっと
  生きているわけじゃないっていうことに
  気がついたっていうか、
  それだったら、やっぱり、
  それまで
  どれくらいハッピーでいられるかが
  勝負だろうなっていう気が
  今はする

        清水真帆  ポプラ社刊  「種まく子供たち」か

         (彼女は急性骨髄性白血病で23歳で夭折した。)

 「指導する」、「マニュアルを作る」、「カリキュラムを作る」ことがいつのまにか教える側の至上命題になり、同時にそれに従うことが教えられる側の当然に受けるべき作業になってしまった。
 だがそのことは、自らが開発し、努力し、発見し、創り出していく力を、若者から奪う結果を招くことになってしまっているのではないのか。

 「教える」とは一体どういうことなのだろうか、とふと考える。「答えを出すこと」こそが目的なのだと、我々は思い込み過ぎていないだろうか。「教えること」は「受け手が学ぶこと」と重なってこそ、始めて本来の力を発揮するのではないだろうか。

 マニュアルに従うことは、確かに一つの答への道筋を示してくれる。しかし、マニュアルに従って出した答えは、マニュアルが出した答えであって、実行した者の答ではない。
 にもかかわらず、マニュアルを求める若者が急増し、マニュアルにないことは知らなくてもいいのだとうそぶく若者も増えてきている。

 このことは逆に言うと、マニュアルに従って起きた事件はマニュアル作成者の責任であり、マニュアルにないことによって起きた事件はそうした事態を想定してマニュアルに盛り込まなかった、これまたマニュアル作成者の責任であるということで人は満足しているということなのだろうか。

 したがって自分に不利益が及びそうなどんな事態も、自分の責任とは直接係わりのない場面であり、他人が責めを負うべきであるということにしてしまいたいというのであろうか。つまり、「マニュアルが必要」とは、「マニュアルなしで自分の判断で実行したことは自分の責任であるとされる危険性が強い」からこれを拒否し、自分で責任を負わなくて良い環境に自からを置きたいという意識の表われなのだろうか。

 いま子供たちは、遊びでもスポーツでも親子や隣近所との付き合いなどでも、人間としての基本的な本能を欠かしたまま生活している。多分それは核家族化や少子化が当たり前のことになり、人と人が関わりあっていく生きていくためのルールというか、生活のための最低限度必要な基本的環境すらも、どこかバーチャルなものになってしまっていることにも原因があるのかも知れない。

 ゆとり教育が叫ばれて間もないと言うのに、早くもそれが誤りなのではないかとの議論が出てきている。
 文部科学省の提唱してきた「ゆとり教育」に反対の声が高いという背景には、最近の国際的な学力調査で、かつての栄光に輝いていた日本人小中学生の学力の優位さが失われてきたという事実が拍車をかけているようだ。

 学力低下への不安は、世論調査によると調査対象者の81%にも及んでいるとの報告もあり(読売、05.2.6)、お受験がらみの思想は相変わらず日本人に染みついているようだ。

 「ゆとり」の増加とは、「詰め込み教育」から離れて、子供の成長にかかわる諸々を「子供自身にまかせる」、「家庭にまかせる」ことに求めることだったと思うのだが、任される本人も家庭もそのことに拒否反応を示しているということなのであろうか。

 しかもである。それだけ学力低下を述べながらも、学校教育そのものへの不満では、「教師の質」への不満が60%でトップになっている。

 誤解を恐れずに言ってしまえば、親は自らの教育へのたずさわりを放棄し、しかも学校をも信用していないということになる。

 つまりは結果が自分の気に食わないことは全部他人が悪いのである。むかし、俗謡か落語か忘れたけれど、こんなフレーズが流行ったことがある。
 「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」。

 この歌をまるでひっくり返すかのように、現代は決して自分を悪いとは思わず、すべて他人のせいだと思うような時代になった。

 そうして、「誰かが何とかしてくれる」とか、「誰かが何とかすべきだ」に代表される、無責任、無気力がその背景にうごめいている。
 結果の利益だけを自ら享受するだけで、途中経過の責任はすべて他人に委ねる、そうした全くの無責任の姿がそこにはある。

 「大変だあ!」から「誰かが何とかしてくれる」の間に、もっともっとやらなくてはならないこと、やらなくてはならない存在があるはずだと思うのだが、安易であることにすっかり馴れてしまった大人も子供もそのことに気づこうともしない現実が、そこここに流れている。

 物事は、見ようと思わなければ見えてても見えないのだと思う。なのにマニュアルの広がりは、そうした「見ようと思う心」そのものを、絶え間なくつぶし続けているような気がしてならないのである。

 それとも、そんなことは分かっているけれど、マニュアルにでもすがらないと生き延びていけないほど今の時代が荒んでしまっているとでも言いたいのだろうか。



                        2005.03.29    佐々木利夫


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誰かが何とかしてくれる