単身赴任とは自己管理である。なんたって3LDKまがいの官舎にたった一人で住んでいるのだから、食べるのも洗濯するのも部屋の掃除のみならずトイレの清掃まで自己責任である。

 今では単身赴任者用の施設を設けている地区もあって、部屋もこじんまりとしていて、場合によっては食事を提供してくれる賄婦がいるところこともあるらしいが、私の勤務していた帯広の公務員宿舎は、例えばテレビ、洗濯機、冷蔵庫などはレンタルしてくれたものの(電子レンジは当時まだ高級品で貸与品には含まれていなかった)、まさに部屋だけ貸すからあとは勝手にご自分でどうぞの世界だった。

 それでも、たとえ二日酔いであっても朝食はほとんど欠かすことはなかったし、ためると億劫になったり休日の半分がつぶれてしまうなどから2日〜3日おきくらいには洗濯機も回していたから、単身赴任者としてはまじめ人間の部類に入るほうだったと言えるだろう。

 さて、いつもの仲間数人との飲み会である。流れはほぼ決まっていて、一次会は居酒屋で開きほっけを食うかそれとも焼肉屋かホルモン屋である。「とりあえずビール」からスタートするが、やがて日本酒に移っていく。そのころ仲間内で仕上げに「牛乳」を飲むことが流行っていた。

 いかに帯広が酪農王国十勝の中心地でも、酒の代わりに本物の牛乳を飲むような物好きはいない。焼酎をお湯や炭酸、ウーロン茶などで割るのが流行り始めた頃で、それならあっさりと牛乳で割ってはどうかと農協などがアイデアを出してして消費拡大を狙っていたが、その牛乳割りでもない。

 仲間内で言う「牛乳」とは白い酒、つまり濁り酒のことである。少し酔ってきた体に冷やした濁り酒は口当たりも良く、ビールグラスに注いだ姿はまさに牛乳のイメージであった。
 口当たりのいいぶんだけスイスイと入っていくし、アルコール度数は日本酒と同じくらいか場合によっては少し高めだったから酔いの回りもけっこうなものである。

 そして二次会はなじみのスナックに繰り込み、訳の分からんたわ言わめきながら午前様前後、やがてハイヤーでご帰還というおなじみのパターンとなる。

 ハイヤー賃1000円前後、たどり着いた官舎の5階が我が部屋である(6階以上になるとエレベーターの設置が義務付けられることから、当時の北海道内の官舎は全部が5階までの建物であった)。後は酔うた我が身を横たえるだけである。カバンの中をさがす、ポケットに手を入れる、内ポケットまで捜索する。だが胸のワイシャツのポケットにもズボンの後ろポケットにも、再三の確認にも部屋の鍵がない。

 途中で鍵を落とすような飲み方をした覚えはないから、恐らくは職場の机の引き出しの中にキーホルダーごと鎮座ましましているのだろうが、この時間では既に庁舎は施錠されている。そんなところへのこのこ入り込もうものなら、警備会社への通報システムを自ら確認するだけの効果しかないだろう。

 開かないと知りつつドアへチャレンジする。ドアノブを丸ごと外すことができないだろうか、ドアを取り付けてある蝶番の中軸をもしかしたら抜くことができないだろうか。マンションタイプの部屋への出入りは玄関ドアが一箇所あるだけである。なんと言ったって部屋に入るためにはたった一枚の冷たい鉄のドアを攻略するしかない。爪でドアノブのネジようのものを回そうとしたり、ボールペンを鍵穴に差し込んだりと、考えて見れば幼稚で無駄な努力なのだが、酔った頭では必死である。入れなければこのままドアの前で野宿である。ドア一枚隔ててあたたかい布団があり、明日の朝食も約束されているのに、これではホームレスそのものの姿ではないか。

 だがピッキングの知識もなし、どうしたところで目の前にそびえる鉄壁は攻略不能である。後になって考えてみればどうせ単身のこの身である。街に戻れば深夜営業のサウナくらいはある。翌日、同じ背広、同じネクタイで出勤したところであらぬ誤解をうけることもないだろうから、そんなサウナで徹夜する経験も一興と思いつけば良かった。

 ところが思いつかないのである。部屋の中に入ること以外は思いつかないのである。ドアは一枚、鍵なしでは絶対に入れない。
 ならばどうする。とんでもないことを考え付いた。裏口からの侵入である。マンションタイプだから裏口はない。だがベランダがあるではないか。ベランダには二面の窓がある。戸締りは几帳面なほうではないし、おまけに我が家は5階である。毎日のことで記憶にないが、内側から窓をロックしていない可能性だってあるではないか。

 しかし、致命的な問題が残されている。考えて見れば(考えなくてもすぐに分かるが)住んでいるのは5階である。5階の部屋のベランダは当然に5階である。どうしたらそこへ到達することができるのだ。

 すでに酔った頭に不可能の文字はない。早速盗人に変身する。カバンをドアの前に置いたまま一階へ降りて裏へ回る。なんと一階の他人の家のベランダから二階のベランダへと猿のように登り始めたのである。とんでもない行為である。いかに高校時代の部活に体操を選び、鉄棒、吊り輪などで鍛えた身とは言いながらあれから20数年、ましてや酔っているのである。間違えて落下すれば命にかかわる問題である。

 どの程度苦労して到達したのか覚えていない。一階から二階へと登れたのだから、それを繰り返すだけの話である。見ている人がいればどうしたってそんな無茶なことはやめろと止めただろうが、誰も見ていない深夜の一人である。大胆な盗人の努力は、その甲斐あってどうやら5階の裏口へと到達することができたのであった。

 南無さん、単身赴任の自己管理は磐石であった。窓は二面ともしっかりと内側からロックされているではないか。この身は前門の虎、後門の狼、二進も三進もいかないジレンマの真っ只中である。
 かくなる上は最後の手段である。前門には鉄の扉が立ちはだかっており歯が立たないことは実証済みである。ところが後門の守りはガラス戸である。しかも今更ながらこの5階から降りることなんぞ思っただけで身の毛もよだつ。どちらを攻めるべきか、今となっては答えははっきりしている。ベランダに置いてあった小さな植木鉢を手に取ると、ロックしてある金具付近のガラス窓に小さな傷をつけようと静かに叩きはじめる。

 自分の部屋だから犯罪にはならないかも知れないが、この状況はまさに器物損壊、住居侵入の現行犯そのものである。
 「パリン」と音がしてガラスが割れた。だが思ったよりも大きく窓ガラス全体にひびが入ってしまったようだがかまうものか。それでもガラス全体が崩れることはなく、どうやらロック金具の回りに小さな穴を開けることができた。手を差し込んでロックを外しガラスが崩れないように注意しながら窓を開ける。もちろん開いた。かくて我が家は我がコントロール下に落ちたのである。酔った頭では大成功である。

 こんなこと、誰に言えるものではない。こんなはちゃめちゃな行動は、どう考えたって冗談ですませられるような話ではないし、酔っ払いのあまりにも無謀な行為である。ましてや結果よければ・・・・、と言う話でもない。

 しかしこのつけは大きかった。割った窓は一枚だったけれど、畳一枚ほどもあるような大きなものだった。自分で忍び込んでおいてこんな言い方は変だけれど、5階だから泥棒の心配もない。翌朝、二日酔いの自己嫌悪の中で、とりあえず雨除け、風除けにダンボールとガムテープで応急修理して本格修理は後日専門業者に頼むことにして出勤する。

 ところがこの大きさのガラスの取替えはとても高価なのである。とてもじゃないがハイヤーで街へ戻ってサウナの椅子の上で毛布で徹夜するような費用とは比べ物にならないのである。ビジネスホテルに泊まるよりも高いのである。
 だからこの話は今日まで誰にもしたことがないのである。女房にも子供にも仲間にも・・・・である。でも、でも・・・・・、あぁ、とうとう言っちまった。


                        2006.3.18    佐々木利夫


          トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



家に入れない