帯広から北北西へ約60キロ、車なら1時間、バスなら2時間弱の山あいにある鹿追町然別湖畔で開かれるこの祭りは、七月の第一土曜日たった一日だけの行事だが、帯広に勤務したのは2年間で、その間に2度とも行っているから、私もかなり物好きな部類に入ると言えるかも知れない。

 この祭りは何代か前のこの町の町長の創作によるものだと聞いたことがあるから、本州各地に見られるような伝統ある郷土芸能というほどのものではないだろう。それでも夜のしじまにのたうつ白蛇の姿はひとときの旅情を異邦人に与えてくれる。

 祭りの意味は簡単である。飢饉に襲われたアイヌ一族を一匹の白蛇がオショロコマ(岩魚の一種)があふれるように生息している然別湖まで連れていくことで飢えから救ったという伝説をもととした食への感謝である。

 全長10メートルほどの布製と思われる白い蛇を、頭1人、胴体4〜5人の男性が長い棒で支えながら操作するその姿は、長崎や横浜中華街などに伝わる龍の踊りに良く似ているから、基本的にはこうしたスタイルを真似たものだと思う。そうは言っても暮れなずむ湖水を背景に始まるこの祭りは、同時に開催される町内の中高生の吹奏楽の演奏や地元有志による和太鼓、そして湖面に漂う灯籠流しの淡い明かりなどとも相まってけっこうな盛り上がりを見せてくれる。

 この白蛇姫祭りに2度参加したことについては先に述べたが、初回は近くのホテルにゆっくりと泊まり、二度目は免許とりたての原付バイクを駆使した日帰りだった。

 最初に訪れたとき、興にまかせて当時流行り始めていたビデオ撮影機(今のような小型のものではなく、VHSテープをそのままセットするかなり大型のものである)をレンタルして担いでいったこともあって、どこかの雑誌の取材などと間違われてしまった。

 実はこの祭りは午後4時過ぎから遊覧船に関係者だけを乗せて近くにある弁天島の小さな社(弁財天)に参拝するところから始まる。タイミングよくその舟の出発時間に間に合い、しかも祭りの主催者らしい人が私を勝手に報道関係者と間違ってくれたこと(とは言っても「報道関係の人ですか」と尋ねられたときに、敢て否定しなかったという責めは負わなければならないのだが・・・)もあって、折りよくその船に乗ることができた。

 関係者が弁天島に降りて社にお参りをしたり、神主らしき人が祝詞をあげたり、蛇の好物だとされる生卵をいくつも湖に投げ入れるなどの姿をそれぞれ面白く眺めながらの船旅であった。

 ところで白蛇姫伝説はアイヌの感謝で終わるのではない。魚の住む湖を教えることで人々を飢えから救った白蛇の精は、オショロコマについてこんなふうに伝えているのである。

 「困った時の救いにのみ食べよ」

 それにもかかわらず、昭和30〜40年代に入ってオショロコマは激減し始めた。私が勤務していた昭和60年頃には然別湖でのオショロコマ漁は全面的に禁止されていた。

 高度成長期を経験して、世は挙げて飽食の時代に入った。その名残りは今の時代も変ることはない。白蛇の精の教えを人はあらゆる面で無視してきた。豊かさとは食べることであり、消費することであり、喰い散らかし大量に廃棄することが幸せをもたらすものなのだと錯覚した人々は、銀座のネズミが糖尿病になり街中にゴミがあふれるまでに贅を尽くすようになった。

 オショロコマはサケ科イワナ属の天然記念物で、然別湖に流れ込む川とこの湖のみを生息地としている。然別湖はこの魚にとっての海なのである。川で産卵し海へ下って育ち、やがて産まれた川へと戻ってきて上流で産卵するという鮭の生態と同じ生き方をこの閉ざされた自然の中で守っているのである。

 オショロコマ全面禁漁と白蛇姫を巡る物語は、我々に豊かさとは何かについてしみじみと教えてくれる。そしてそれは、いま世界中で話題になっている環境破壊にもつながる「人類のつけ」そのものを意味しており、自然破壊に対する警鐘なのではないかと、そんな気がし始めているのである。


                        2006.1.19    佐々木利夫


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然別湖・白蛇姫祭り
  

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