寿司や刺身のネタとして人気のホッキ貝であるが、時に「北寄」と書くように北の味覚である。全国的には福島県の相馬地方が特産地として知られているらしいが、実は北海道苫小牧が水揚げ日本一であり、相馬へはこの地から大量に運ばれているとの話も聞いたことがある。

 だからと言って北海道も苫小牧沿岸でだけ獲れるわけではない。どこまで漁業として成り立つかはともかくとして波の荒かった翌日など、砂地の海岸でホッキが拾えるとの話はあちこちで聞いたことがある。

 ホッキは寿司ネタとしてはもちろん刺身としても高級魚である。私も大好きなのだが、値段との折り合いもあって、口に入るチャンスはそれほど多くはない。

 ところが、かつて帯広に勤務していた時代に生きたままのホッキ貝を後輩の職員から4個ばかり貰ったことがある。なんでも親戚から貰ったとか言っていたが、生きた貝、それも握りこぶし大のホッキ貝など始めてお目にかかる。

 生きた貝と言えば、せいぜいがスーパーからトレーに入ったシジミ貝を買ってきて、味噌汁の具にする程度が関の山であり、それ以外には缶詰か居酒屋のあさりの酒蒸しくらいしか馴染みがない。

 シジミを食うと言ったってとりあえず見よう見真似で砂出しのためにボールに入れて水を張り、砂を吐かせるためには金気が必要だと聞いたことがあるので包丁の刃と一緒に水に漬けておくだけのことである(ただし、この方法が理に叶っているのかどうかは今もって確信がない)。
 そして調理と言ったところで一煮立ちした具のない味噌汁に殻ごと投げ込むだけであり、死んでる貝は熱湯でも口が開かないと聞いているので、開いた殻に張り付いている中味を箸でつまみ出して食うのだから新鮮さに関しては十分に安心できる。

 さて目の前にあるのはシジミではない、握りこぶし大のホッキがでんと鎮座ましましている。しかもまさに獲ってきたそのままなのだろう、砂まみれというか泥まみれのままスーパーの袋に入っている。どうやって始末したらいいんだ。とりあえずシジミの真似をするしか思いつかない。少し深い鍋に入れたホッキは動かすたびに僅かに開いた貝殻が閉まるから、まさに生きているのが目に見える。

 処理を任せる女房もいない単身赴任である、調理も自己責任と言うことになろうか。砂出しもシジミに準じることにしよう。水を張った鍋に貝を入れ、海水を真似て塩を一つかみ放り込んでその中に包丁を漬ける。これでいいのかどうか分からないけれど、放置することほぼ一時間、見かけ上砂出しは順調に進んでいるような気がする。しめしめ・・・・・。

 まさかにこのまま丸ごと味噌汁に入れたり醤油で煮付けるなんてことは、いかに料理に無頓着な私だってそこまで非常識ではない。生きている貝である。刺身が美味い貝であることは経験済みであり、答えははっきりしている。だからシジミのように熱湯を利用して貝殻を空けるなどと言う方法(実際に開くかどうか試したことはない)が刺身道に反していることぐらいはすぐに分かる。

 だとすれば、答えは自動的に導き出せる。シジミでも分かるように貝は殻と実とからなっている。生きたまま貝殻さえ開けることができるならば中味はすぐに取り出せる道理である。まあ、内臓だのなんのと色々ついているかも知れないが、中味を取り出すことさえできるなら後はなんとかなるだろう。

 これからが大奮闘になるのである。静かにホタテを一個持ち上げて、僅かに開いている貝殻の隙間を上に向け、二つの貝殻の接合部、つまり蝶番の部分をまな板に乗せて包丁を真上から差し込む。とたん、「貝のように口を閉じる」という言葉をまさに実感するのである。それはそうだろう。貝にしてみれば生きるか死ぬかの瀬戸際である。刃先が少し入ったところで、貝の口は瞬時に閉ざされる。しかも、そうなってしまうと包丁は、押して入らず、引いて抜くこともできないという状況になってしまうのである。

 貝と包丁が一体となったまま、振り回しても、そのまままな板に打ち付けても、閉ざされた貝の口は頑として愛する者を守ろうとでもするかのように包丁を離そうとはしない。仕方がないから包丁ごともう一度水に戻しておくことにする。しばらくすると安心したのか少し口が開き加減になる。すかさず包丁を押し込もうとするが敵もさるもの、ほんの少し動かしただけで再びしっかりと口を閉ざしてしまう。

 何度か繰り返して口を開けることは当面諦めて包丁を抜くことはできたが、貝は依然として殻に閉じこもったままである。もう一つの貝に挑戦するが、これとても前者の轍を繰り返すだけである。
 つまりはこの素晴らしい珍味を目の前にして、人力ではいかんともなす術がないのである。しかも、包丁を抜くにしても貝の口が緩んでくるまでにはそれなりの時間がかかる。さっきから30分も1時間も、それ以上かかっているのに、貝は依然として健在のままである。札幌へ電話して女房にホッキ貝の殻の開け方を聞くなんぞ男の沽券にかかわるというものである。相手はたかが貝ではないか。こうなると残るはいよいよシジミの例に倣って釜茹での刑を執行するしかないのか・・・・・。

 だが刺身への思いは強い。熱湯など絶対に使うものか。何度目かの挑戦のあと、包丁と一体になっているホッキを目の前にして、包丁の柄を握りながらしみじみと貝を見つめる我が姿は、まるで国定忠治が子分と別れる赤城山の一シーンそのものである。

 よし、分かった。そこまでお前が抵抗するのなら、こっちも最後の手段に訴えるしかない。その命貰い受けるためには手段など選ぶものか。刺身を目指す以上、釜茹での刑にこそしないけれど、その代わりにどんな手段でも使ってやるぞと、この意のままにならぬ小さな命に向かって男はにやりと口をゆがめる。

 最後の手段とはかなづちである。単身とは言っても部屋の壁に釘を打つことだってあるから、かなづちは必需品である。ホッキのついた包丁の柄を握ったまま、それでも飛び散るであろう破片の掃除が少しは気になるから新聞紙を持って玄関先へ行き靴を脇によける。
 敷いた新聞紙の上に包丁にしがみついたままの貝を横たへ、力加減が分からないから始めはそっと殻のはじのほうから軽く叩く。ホッキはますます包丁にしがみつく。そうはさせじとかなづちを持つ手に力が入る。

 ざまあ見ろ。少し欠けはじめると思ったよりも簡単に殻は壊れていくし、壊れ始めると中味を取り出せるように破壊するのにそれほど手間はかからない。壊れた殻の一部が実の中に混じっているかも知れないが、人間様に抵抗するとこんなことになるんだと、口には出さずただ黙々と破壊作業を続ける。やってみると4個のホッキなど赤子の手をひねるようなものである。

 殻が残って食べたときにジャリジャリしないようにきれいに洗って、呼吸器なのだろうか細い管状のものだとか、黒い内臓のようなものをすっかり取り除いて淡い灰色とクリーム色の肉体を、今度はその包丁で刺身用に八つ裂きの刑である。

 晩飯がすっかり遅くなった。とは言え気楽な単身赴任である。外で飲んで帰る時間帯から比べたらまだまだ宵の口といってもいいほどである。醤油、チューブに入ったわさび、そして缶ビール・・・・・、大奮闘に対する勝利の雄叫びでもあげたい気持ちである。

 さすがにホッキの刺身は美味い。おまけにこのホッキには我が艱難辛苦とその勝利の味が十分に染みこんでいる。少しの酔いが今日の奮闘を静かに称えてくれている。ビールを日本酒に代えて4個のホッキは満足の気持ちを残して我が腹にきれいに収まった。

 もちろんこれには後日談がある。ホッキの調理には殻をハンマーで叩き割るなどという野蛮な方法など決してとらないのである。
 方法はこうである。まず、最初に殻の外側から貝の両サイドにある貝柱の位置を予想する。これが決め手である。貝が口を閉ざすのは貝柱の力によるものであり、かつ、それだけである。位置を決めたらその片方の貝柱に向かって一気に包丁を入れるのである。貝柱は殻の縁からそんなに遠くないから位置の見当さへ間違わず、包丁を刃の先端から差し込むようにすればそんなに難しいことではない。

 これで成功である。片方の貝柱を攻略されたホッキは、あれほど頑強に抵抗していたにもかかわらず、魔女が眠りの呪文を唱えたかのように無抵抗になる。こんなに細いものが、と思うほど貝柱は頼りないくらい小さいがさても恐るべき力である。
 この方法を知ってから、私はホッキ貝の処理など朝飯前になった。今の事務所でも仲間の一人が魚市場に関係のある人を知っており、その伝手で殻つきを10数個届けてもらって調理したことがあるが、何の苦労もなかったのがその証拠である。

 おまけに食べ方についてもいくつか知ることができた。基本的にはホッキは熱を通すとどんどん硬くなっていく。例えばカレーライスなどで肉の代わりに使うのも美味いのだが、最初から人参や馬鈴薯などと煮込んでしまうとホッキのダシはともかく、実はまるでゴムでも噛むように硬くなるのである。炊き込みご飯でも同様である。その硬くなる加減を考えながらの調理もホッキを美味く食うための技である。

 まだある。刺身を生で食うのはもちろんのことなのだが、サッと湯に通すと灰色の実が薄いピンク色に変っていく。ほんの少し強くなった歯ごたえがまた変った美味さになるのである。もちろん湯に通すのは長い時間ではない。箸で熱湯にさっとくぐらせそれから刺身にするのである。それに殻ごと焼いて食うのも絶品である。これはそんな贅沢ができる数だけ手に入ったときに試すことができた。

 ホッキを生のまま調理すると、多少アンモニア臭というか独特の臭いが手に残るけれど、それもまた美味さを後押ししてくれる。かくて私は自称ホッキ名人になったのである。



                        2006.3.06    佐々木利夫


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負けてたまるか〜ホッキと大奮闘