いじめが今や日本中の社会問題にまで発展している。原因はいじめによると思われる小学生や中学生の自殺や自殺予告が相次いでいることにある。
 学校も文科省も識者による諮問機関も有名人もこぞって「いじめ対策」はどうあるべきかを巡って混乱していると言ってもいいくらいである。

 いつもの例で、新聞もテレビも一斉にいじめ問題報道に走り、誰が悪いあそこが悪いと犯人探しにやっきである。
 ただそれだけでは片手落ちと感じるのか、自殺予防のための有名人の談話も欠かさない。

 だが、こうした有名人の話にはどこかしっくりこないものを感じてしまう。それはそうした話と言うのが、結局は成功した者の成功の物語でしかないからである。

 私はそうした有名人の、過去に遭遇したであろういじめの事実、それに立ち向かってきたであろうその人のひたすらな努力や忍耐を否定しようと言うのではない。
 それでもその物語は成功者の成功の物語でしかない。社会的に報われ、相応の地位や名声を得た人の結果的に「私の子供の頃は・・・」の思い出の物語である。

 小柴昌俊氏(ノーベル賞受賞物理学者)はこんな風に言う。「小児麻痺で夢だった軍人と音楽家をあきらめた。入院中に担当の先生が持ってきた物理学の本との出会いが今のぼくになった。そうした出会いを大事にすれば死のうなどとは思わないはずだ。夢中になれるものを見つけてほしい」(朝日新聞11月19日要約)。

 劇作家の鴻上尚史は「遺書を書け、そして死ぬな。あなたが安心して生活できる場所が、小さな村か南の島かもしれないが絶対にある。僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました」と言う(同11月17日)。

 演出家宮本亜門は「嫌なことだったけれど、友達に『やめよう』とは言えないし、『自分はやらない』とも話せなかった。ひどいことをしていとき、心から楽しいと思っている人はいません。君には後悔してほしくないからです」(同、11月21日)。

 どれもこれも大人になって功成り名を遂げた人物の、過ぎ去った昔の思い出である。今を耐えれば必ずノーベル賞をもらえるとか著名な劇作家や演出家になれるとは書いてはいないけれど、こうして新聞の第一面に掲載されること自体が成功の証である。

 だが、いじめられた子のほとんどは決してヒーローになどなれないのである。いじめられたからヒーローになれないのではない。いじめられている子は普通の子である。中には天才がいるかも知れないし将来の芥川賞作家が生まれるかも知れない。でも、それはいじめとは無関係であり、普通の子はやっぱり普通に育ちそして普通の大人になっていくのである。それが世の中なのである。

 「私はいじめを跳ね除けてヒーローになった」、そんな人の頑張れ宣言や精神訓話は、ヒーローになどなれることのない当たり前の子供の心に届くことはないと思うのである。

 そんなこと言ったって現に子供は悩んでいるのだから、なんとかしないと、なんとかしてやらないといけないではないかと大人は言うかも知れない。それはそうである。無関心で放り出しておくのが正しいことだとは思わない。

 ただ、私はこうした大人のいじめに対する助言などが、どこかで間違っているのではないかと気になって仕方がないのである。いじめは悪だとか命は一つなどと説得しようとしている姿が、なんだか焦点がずれているような気がしてならないのである。

 子供は出口の分からない真っ暗な洞窟でたった一人で迷っている。その心細さを誰も理解しようとはしていないのではないかと思ってしまうのである。
 いや、「理解」という言葉を使ってしまうのなら大人も、その子の心細さを理解しているのかも知れない。だが一緒に洞窟で迷おうとする気持ちが大人の理屈からはどうしても感じられないのである。

 一緒に迷ってくれる人のいることがどれほど救いになるのか、そこのところをだれも理解していないのではないのか、そんな気がしてならないのである。
 それは頑張れとか負けるななどを繰り返すだけで、「君と一緒にウロウロしよう」と言ってくれる人や書いてくれる人がなぜかどこにもいないからである。
 もちろん明かりを持った神様がにっこり笑って迷いの洞窟に現れることにこしたことはない。

 だが、「朝の来ない夜はない」だとか、「努力していればいつかはきっと出口が見えてくる」、「今はあせらないでゆっくり休もう」なんぞと、大人は繰り返し語りかけてくるけれど、一緒に心細くなろうなどと寄り添ってくれる人などどこにもいない。親も先生も友達も先輩も、もちろん有名人も文科省の役人もである。

 私はいじめに答えはないと思っているのである。いじめに対する特効薬など絶対に見つかることはないと思っているのである。
 役所も学校も親も、それなのに特効薬を見つけよう、処方しようとばかりしている。だからその人たちの心が子供に届くことはないのではないかと思ってしまうのである。

 別に発表したホームページのエッセイで私は、「いじめをなくせると信じている社会や学校こそが誤りだ」と書いた(別稿「『いじめのない学校』の錯覚」、参照)。

 ではどうしたらいいのか。簡単(?)である。迷っている子供、悩んでいる子供、死にたいと思っている子供に向き合って、親も先生も隣近所もみんな一緒に「ウロウロ」、「オロオロ」すればいいのである。それだけでいいと思うのである。

 もっともらしい理屈を持ち出して子供を説得しようなどとしないで、子供と一緒に迷えばいいのである。いじめに答などない。いじめ解決の妙案などない。答えのないことを子供に話し、そのことを認め、一緒に悩むことだけで子供は救われると思うのである。

 出口を探している子供は、たしかに出口の見つからないことに悩んでいる。真っ暗闇でたった一人だと思っている。そうした子供に出口と明かりを示してやるのが親だ、教育だと言う気持ちの分からないではない。恐らく出口はどこかにあるのだろうし、いつかは見つかるのだろう。
 でも残念ながら「いじめ」はどんな人の心の中にもあるもので、もしかしたらそうしたいじめる心だって人を人らしくしている根っこにあるのかも知れないのである。だから結局人は自分自身でしか出口を見つけることなどできはしない。

 最近はネットによる匿名のいじめが多くなり、いじめが陰湿になっていると識者は語る。だが匿名の中傷は何もネットに特有のものではない。大人だって新聞や雑誌や郵便などを通じて昔からやってきたことであり、子供同士のネットの匿名はその模倣というよりは人間としての本性の表れだとすら言っていいだろう。

 そしていじめる側に対する批判だって、「君にもきっと悩みがあるんだ」とか「いじめて楽しいとは思えない」とか「大人になって後悔する」などが並ぶけれど、本当にそうなのだろうか。
 こんなこと誰も言わないけれど、もしかしたら「いじめは楽しいし、ストレスを解消してくれるし、しかもいじめた事実なんて、後悔どころかすぐに忘れてしまえる」ことなのではないのだろうか。そうした視点でいじめをとらえることなしにいじめを悪とする論点だけを並べるだけではどこか片手落ちになっているのではないのだろうか。

 ならぱ、どんなに立派な「名セリフ」を聞かせられるよりは、一緒に迷路をさまよってくれる人のいるほうが、いじめられている子供にとってどれほど救いになることか。
 一緒にいてくれるなら安らいだ眠りを得ることができるだろう。悩みに共感してくれるなら答えは見つからなくとも肌の触れ合う暖かい居場所をそこに感じることができるだろう。真っ暗闇で顔が見えなくても一緒にいることの息遣いを感じることでそこはいじめのない空間になることだろう。

 もちろん子供と一緒にウロウロ、オロオロするにはそれなりの覚悟が必要となるだろう。大人の論理ではウロウロ、オロオロは敗者の態度であり他人には見せたくない姿勢だからである。
 だが、そうした態度を選択すると言うことは、言葉を代えて言うなら「そうした覚悟だけでいい」ことでもある。

 そうした場を作り、そうした人物になることを覚悟するだけで親は親になれるのである。先生は先生になれるのである。そう、私は思っているのである。


                                2006.11.22    佐々木利夫

 (追記) 今日の朝刊(11月27日、朝日)のいじめを批判する読者の投稿記事を読んで、思わず笑ってしまった。

 「・・・同窓会に昔のいじめっ子が姿を現すと、それまでの談笑が消えてシーンとなった。『あの××が来たワ』 『あれワルだったよナ』・・・その男性は・・・誰にも相手にされず顔がこわばっていた。いずらくなったのだろうすぐいなくなり、その後の同窓会に、もう出てくることはなかった。同級生の冷たい視線の中で、二度と出られるはずもないだろう。・・・」

 そうした無視する行為だって間違いなくいじめではないのかと、私は思ってしまったからである。かくもいじめとはいじめる側は気づかないものなのだろうか。しかも投稿者はいじめは我が身に降りかかるのだと、いじめをなくするために投書していることになんだかいじめの根深さを同時に感じてもしまった。




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いじめへの助言の錯覚