「いじめのない学校にする、努力する」、こんな話を良く聞く。いじめによる小学生や中学生の自殺が続き、自殺を予告する手紙やメールが行き交って、時にそれに便乗した大人の愉快犯さえ現れる始末であり、世の中いじめに沸いている。

 そうした中で私は、この「いじめのない学校」という言葉が気になって仕方がないのである。気になるどころか、誤りではないかとすら思うのである。
 「いじめをなくする」ことを目的にするから、それが実現したと思った時に我が校からいじめはなくなったと思い込み、そのとたんにいじめは「未来永劫消滅した」ものとしてそこで終らせてしまうのではないか。

 いじめは「ない」のだし、「ないこと」が正しいことなのだからその状態を守ろうとする、あったとしても「多少のこと」だったらそれは「ないもの」として捨象する。仮に事実を突きつけられたとしてもそれは「いじめられている子の個別問題」であって学校全体の問題ではない。そんなことを続けているとやがて「見えても見えなく」なり、「あっても隠す」ようになり、「ないと言い張る」ようになる。

 「ない」ことが正しいと思い込んでいるのだから、親や周りから事実の調査を求められたとしても「ない」ことを目的とした調査から「ある」ことは出てこない。

 前にもこのホームページで発表したけれど、いじめは人間の本質に由来するもので決してなくなることはないと思うのである(別稿「いじめと以和為貴」参照)。
 そのことは最近の新聞で「私もいじめられたことがある」と若者や大人や果ては老人までもが名乗りだしていることや、いじめが世界中で議論されていることからなどでも分かる。

 社会も学校も昔からいじめをなくそうとしながらも決してなくならない事実にどうして気づかないのだろうか。「いじめ」はどんなに努力し、どんなに熱心に対策をとったとしても決してなくなることはない、それは人間の本質に根ざすものだからだと思うのである。

 だから私たちは、「いじめはどんな場合にも起きる」、「どんなことをしてもなくならない」ということを前提にして考えていかなければならないのではないかと思うのである。
 いじめの根絶が不可能であることについては、親も先生も、心理学者を含めたどんな大人だってきちんと自分に問いかけてみるならば事実として理解できるのではないのだろうか。
 私はいじめをなくせると信じていること自体が錯覚であり、そのことに拘泥している社会や学校こそが大きな過ちを犯しているのではないかと思っているのである。

 例えば戦争、例えば暴力、例えば盗み、例えば殺人などなど、そうした争いなどのない理想社会みたいな現実は、それを望むことの是非はとも角として、実現させることは不可能なのだと理解するところから、この「いじめ」の問題も考慮していかなければならないのではないかと思うのである。

 だから、学校や職場に対して「いじめはあるか」と問いかけて「ない」という答が返ってきたとしたら、その組織は「いじめ」に対して何の手も打っていない、何の対策も講じていないことを自ら認めていることの証左であると理解すべきではないのだろうか。

 もちろん「いじめ」にも程度の差はあるだろう。だが人が人を嫌いになるのは人が人を好きになることと同義である。いじめの根はそんなにも当たり前の場所に生えている。だからこそ例えば学校は「いじめの増殖」に対して学校そのものも父兄も家庭も周りの人たちもが、不断から心していかなければならないと思うのである。

 「いじめはない」と宣言した瞬間に、いじめは必ず見えないところから増殖していく。だから、「いじめは常にある」ことを自分にはもちろんのこと内部にも外部にも宣言し、だからこそ「いじめをなくすために不断の努力をしている」ことを宣言し続けていかなければならないと思うのである。

 自殺した子の遺書などでいじめの事実を目の当たりにさせられた学校の言い訳は、あたかもそれがいじめをなくするために努力した結果の責任回避でもあるかのように「そうした事実は把握していませんでした」になってきている。そこでは、「子供へのアンケートをとりました」くらいの対策を示すだけの言い訳でしかない。

 いじめにどう対処していけばいいのか私にも答えは見つからない。ただ、これだけは言えるのではないかと思っている。

 それは子供をありのままを受け入れてくれる居場所の存在である。批判したり、論評したり、説得したり、元気付けたり、道理を説いたりするのではなく、黙ってありのままを受け入れ共感してくれるそんな居場所を作ることである。私はそれだけで良いと思うのである。悩む子にはそうした居場所を作ってやること以外にいじめの特効薬などないと思うのである。

 別稿で私は、「子供から相談されたらその子と一緒にオロオロすればいいじゃないか」と書いた(いじめへの助言の錯覚」参照)。

 大人はどこかで権威ある模範解答を用意しようとしている。「こうすればいじめはなくなる」と言えるような立派な見解を探し出し、それを外に向かって発表して自己満足しようとしている。
 だがその前に、子供が安心していつでも眠ることのできる場を作ることのほうがもっともっと大切である。「いつでも」とは言葉通りのいつでもである。どんな時にも一緒にオロオロしてくれる先生や親がいると分かったら、いじめはその時から怖いものでなくなると思うのである。

 そしてそうした場所は、大人がその気になってほんの少し覚悟を決めて努力すれば、いつでもどこでもすぐにでも作ることができると思うのである・・・。



                          2006.11.21    佐々木利夫


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「いじめのない学校」の錯覚