今朝の新聞(12月22日、朝日)に、アメリカの科学誌サイエンスが発表した世界における今年の科学成果トップテンの記事が載っていた。第一位は私も言葉だけ聞いたことのある現代数学の難問とされる「ポアンカレ予想の解決」で、ニ位がネアンデルタール人の化石からの遺伝情報の採取、次いで南極の氷床が予想以上の速さで縮小しているとの記事だった。
 そう言えば数日前のテレビでは将来北極圏の氷も30%を残して融けるとの話が報道されていたし、確認したわけではないのだが、アメリカNASAは2040年には北極圏の氷がすべて溶けると予想しているとの報道にも接した。

 氷の話だけではない。オゾンホールや酸性雨や核開発や石油の枯渇などなど、人類の未来に対する予言は数多く語られている。
 だがその多くは経済成長や現状維持や国家の利益や威信などに隠され、意図的にしろ無知にしろその事実を信じようとする者はいない。まるでそうした未来の危機予測があたかもカッサンドラの予言でもあるかのようにである。

 カッサンドラ(カサンドラ)はギリシャ神話の登場人物である。ギリシャ神話の面白さは、物語はもちろんのことだが多くの神々と人間との区別がつけがたいところにもある。怒り、嘆き、裏切り、嫉妬、復讐などなど、登場する神々は余りにも人間的である。
 ただそうした面白さとは別に、現代にもそのまま通じる恐ろしいまでのストーリーをその中に感じることができる。

 カッサンドラ、彼女は世にも稀な美貌を与えられたトロイの王女である。彼女に恋をしたアポロンはその愛と引き換えに予言の力を与える。だが、それにもかかわらず彼女はアポロンとの結婚の約束を守ろうとはしなかった。怒ったアポロンはその裏切り対してかつて与えた予言の力の剥奪ではなく、「誰一人彼女の予言を信じない」という運命を宣告する。

 彼女の苛酷なまでの悲劇はここから始まる。彼女にはこれから起きるであろう確実な未来を知ることができる。パリスによるヘレンの誘拐(別稿「愛のためのたたかい」参照)も、木馬をトロイの城内に運び込むことがトロイの国そのものの陥落につながることも、ギリシャ軍の総大将アガメムノンの死も、果ては彼女自身がアガメムノンの妻クリュタイムネストラの手にかかって早すぎる死を遂げることすらも知っていた(アイスキュロスの劇「アガメムノン」より)。

 彼女の告げる未来に明るい物語はなかったけれど、その言葉に耳を傾けようとする者は誰一人として存在しなかった。「信じてもらえないこと」、その現実は、予言の力を失うことよりもずっとずっと悲劇的であった。彼女は必死になってこれから起きるであろう悲劇を繰り返し繰り返し予言する。だが信じない者の耳に彼女の言葉の伝わることはなかった。不信の只中に置かれたまま彼女は絶望の中にその生涯を閉じる。

 「予言を信じてもらえない」運命はアポロンが与えたカッサンドラへの罰であったと神話は伝えているが、このことは同時に「予言を信じられない」と言う彼女以外のすべての人間にかけられた呪縛であることをも示している。

 この呪縛は彼女が死んだ後も解けることはなかった。アポロンの宣告はカサンドラの予言を人々が信じないようにするというだけのものであったはずである。彼女が死んでしまえば彼女の予言そのものが存在しなくなるのだから、アポロンの与えた罰はその時点でその効力を失ってもいいはずであった。

 カッサンドラは、こんなにも明らかな予言に対して少しも信じようとしない人間どもに対してきっと愛想を尽かしたのではないかと私は思う。どんなに事実を示して予言の正しさを伝えても、そのことを信じる者のいなかったことに彼女は絶望したのではないかと、私は確信のように思い込んでいる。
 そして絶望の果てに彼女はついに、信じない人々のすべてに向かって解けることのないこんな呪いの言葉を吐いたのではないだろうか。「ならば良し、そのままでいい・・・・」、「そのままでいろ・・・・」、「永劫に信じるな・・・」と。

 かくて人は人を信じなくなった。カッサンドラがそうした呪いの言葉を吐いたと神話が伝えているわけではない。だが彼女の死後も人は信じることを忘れたままである。

 世の中の不幸のほとんどは、恋人の裏切りや親子の断絶などの身近な出来事から、戦争や貧困や病などの社会を動かすような問題まで、その多くは人が人を信じられないことに根っこをもっている。だからカッサンドラは死後もなお生き続け、彼女の予言を信じなかった人々に対する不信の呪いを、果てることなく降り注ぎ続けている。

 彼女の呪文は、人が人の言葉を「少しでいいから信じてみようか」とふと思いつくその時まで、恐らくは地上に人が残っている限り永遠に解けることはない・・・・。



                             2006.12.22    佐々木利夫


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カッサンドラの呪い