ワールドカップサッカーのドイツ大会が話題を集めている。サッカーはもとより観戦も含めてスポーツそのものにほとんど興味のない私ではあるけれど、日本が一戦目でオーストラリアに破れ、二戦目のクロアチアにも引き分けになって、これまで一勝もしていないとの情報はいやでも耳に入ってくる。なにしろ、時間帯によってはいくらテレビのチャンネルを変えてみても同じような話題ばかり繰り返されていることが何度もあったからである。

 そして今晩(2006.6.22日日本時間では明日6月23日未明)がブラジルとの第三戦になるのだそうである。間違いなく負けるであろうことは、日本チームのこれまでの国内も含めた対戦成績や世界最強と言われているブラジルの実力などから見て、私のような素人目にもはっきりしていると思うのだが、だれもそうした予想には触れようともしない。

 日本人特有の根性論や神風論、果てはスポンサーと呼ばれる応援グループの意気込みだけでも勝利のエネルギーになるなどの実力を超えた精神論・奇跡論が飛び交うばかりである。
 まあ、「勝負はやって見なければ分からない」こともあり得ないではないが、高校野球やこの前に見たオリンピックカーリング選手と高校生との練習試合(オリンピック始末記Aカーリングの怪参照)じゃあるまいし、天が味方するかのような僥倖を頼りにするファン心理はなんだか悲壮でもある。

 そはさりながら、今日の新聞記事(朝日6.22)の見出し「日本も応援したいけれど・・・」、「ブラジルの日系人 困惑」はなんだか変だ。
 しかも記事によれば「ブラジルに百数十万人いる日系人たちはもどかしい思いをしている。」というのであるからなお更に変である。

 日本人のブラジル移民は明治40(1907)年に始まり制度が廃止された1993年までの80余年に及び、その間およそ30万人が移民したと言われている。最初の移民から現在まで100年にもなるのだからいわゆる日系二世もそれなり多いだろうし、その人たちが日本とブラジルの両方に勝ってほしいという気持ちを言いたいのだという記事の意図するところは分からないではない。

 でもこんなところに「困惑」という語を使うのはどこか変である。「日本人はすべて否応なく日本の勝を応援しなければならない」みたいな背景が、何だかとてもあからさまに見えてしまうからである。

 違和感を覚えるのは、一つは「どっちも勝て」という気持ちに「困惑」という表現は使うべきでないのではないかと言う思い、二つ目は日系二世百数十万人のすべてが同じ気持ちだと決め付けていることの二つである。

 困惑とはどうしていいか分からない状態が続いていることを言うのではないのか。共に利害がからんでいて、その対立を超えてまでどちらかの選択を決断しなければならない切羽詰った状況を指すのではないのか。子供の運動会で兄が赤組、弟が白組でアカカテ、シロカテで「親は困惑する」というのだろうか。

 そしてこれはこの記事特有の問題ではないのだが、どうしてマスコミは裏づけのないまま大衆の意思を勝手に推し量ってしまうのだろうか。
 例えば談合事件があり、捜索当局が会社などに強制捜査に入ったとの記事が載る。新聞は「この事件に対し、市民から批判の声が上がっている」と書く。
 でも多くの場合、市民がこの事件を知るのは捜査が入った以降であり、かつ、新聞なりテレビでこの事件が報道された後からである。

 市民の多く(なんならご希望に沿って市民の全員と言い換えてもいい)が、この談合を承認したり支持したりすることがないであろうことは分かる。役人の汚職事件だって、先生の猥褻事件だって、事件そのものを誰もが批判し憤るであろうことを理解できないと言うのではない。

 でも、でもである。新聞に「国民の反発を買っている」などと国民の意思を確認もしないままに書いてしまうのは「読者は当然にこう思っているはずだ」との思い込み、増長、つまりは新聞の驕りなのではないかと思うのである。

 例えば今回のサッカー応援にしたところで、ブラジルチームを応援する人もいれば日本を応援する人もいるだろう。サッカーなんぞまるで無関心と言う人もいれば、サッカーの試合そのものを楽しむだけでどちらにも応援しない人、始めはブラジルを応援していたけれど途中から日本応援に代わった人、その逆の人、試合を見るほどの興味はないが結果だけは知りたいと思うそれだけの人・・・・・、人は様々であり、日系二世という一くくりで一つの意思を擬制するのは間違いではないかと思うのである。

 日本は他の国に比べるなら比較的混血の少ない社会だろうけれど、アメリカはもとより世界の国々の多くは混血のルツポである。祖父母などの出身地を紹介しながら「私はフランス○割、イタリア○割、アフリカ○割」などと言った会話をしている映画を何本も見たことがあるし、同じ血筋同士でも祖国を離れた遠い移民先で子供を産むなんてのは珍しくもなかったことだろう。
 そうした会話は逆に血の祖先を大切にしているという意味もあるとは思うけれど、もっと基本的に何を信じているのかとか、どういう形式で結婚式を挙げるかといった切実な宗教観に結びついているような気がしている。

 日本人は単一民族ですなどと言ってひんしゅくをかった国会議員も昔いたけれど、あんまり民族性にこだわってしまうとそのことために孤立してしまうのではないだろうか。

 第一そんな風に一くくりにまとめてしまったら、サッカーどころか国際大会と呼ばれるあらゆるゲームにアフリカ人二世、イタリア人三世、ドイツ人四世などなど、日系二世も含めて世界中の人間がそのたびに祖先の血の数だけ困惑の渦の中にはまってしまうということになってしまうのではないか。

 サッカーに興味のない者が書くからこんな意見になってしまうのかもしれないけれど、スポーツに限らず平和でも助け合いでも、「かくあるべき」という塊の中に、なんだか人はすぐに入り込んでしまいたがるのではないかと、へそ曲がりはつい感じてしまうのである。

 日本時間6月23日午前4時から始まったブラジル戦は4対1で日本が負け、決勝トーナメントには出場できないことになったとのことである。ルールを理解していないから間違っているかもしれないけれど、これって「予選敗退」と同じような意味なんだろうか。


                          2006.06.22    佐々木利夫


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