イタリアトリノでの冬季オリンピックが2月末に終わった。オリンピックで気になることのいくつかについては前に書いた(オリンピック報道で気になることども)。だが終わってしまった後でもどこか割り切れないものが残るのは、やっぱり私の思い込みのせいなのだろうか。終わった祭りにどうのこうの言っても仕方がないのかも知れないけれど、気になること二つを書きたい。

 @ メダル宣言のあっけらかん

 参加選手のメダルを目指す意気込みについての思いは前記のエッセイでも触れたが、そうした思いとは裏腹に、結局日本のメダルは女子フィギュアの「金」(荒川静香)一個だけだった。日本のオリンピック委員会の大会前の5個宣言に対する反省の弁はなんだか白々しいが、そのことはここでは触れない。参加した多くの選手のメダルに届かなかったこと対する声のことである。
 マスコミの勝手な掛け声によるところが大きいのかも知れないが、メダルの呼び声高く、本人も宣言していたのにその全部が届かなかった(荒川選手はメダルには謙虚で、内心はともかくメダルは意識しないと言い続けていた)。

 メダルに届かなかった本人の言い訳である。「自分なり精一杯努力しました」、「十分に楽しみました」、「力を出し切ったので満足しています」、「次のオリンピックを目指します」・・・・・。

 ビルの屋上から飛び降りるような、そんな悲壮感漂わせた反省の発言を期待していたわけではないのだが、「メダル狙います」とあんなにもあっけらかんと宣言していた選手が、これまたメダルに届かなかったとをこんなにもあっけらかんとテレビカメラに向かって話している姿に、「おい、おい、・・・そんな言い方はちょっと違うんじゃない」とついつい言いたくなってしまう。

 確かに、「残念、もう少し」という選手のいなかったではなかったが、記録から見て世界の実力に届かないどころか遥かに遠かった選手のいかに多かったことか。
 彼らは自分の実力をどんなふうに考えていたのだろうか。メダルを獲得できる、目指すことができるとどこまで真剣に信じていたのだろうか。

 我々の世代の若い頃の愚にもつかないジョークの中にこんなのがある。
 「俺、トーダイ出だよ」(襟裳灯台だとか石狩灯台などの身近な灯台へ遊びに行ってきたことがある)、「東大を受けたんだけど落ちたんだよな」(本当は受験などしていない。せめて試験に落ちたというイメージだけでもいいから、東大との係わりをこの身に与えたい)。
 東大出の官僚が世間でも職場でも常に日本のトップを走っていた、一昔前の東大神話というか学歴偏重が、まだまだ生き残っていた時代の詰まらないジョークである。

 こんなジョークはジョークとしても評価されないままに無視されてしまうのだが、まさかにオリンピック参加選手がこんな「東大」のイメージと同じレベルでメダルを口にしたのではないだろう。

 己の実力など、これまでの日本でのたくさんの競技の中で分かっていたはずである。オリンピック参加選手に選ばれたくらいなのだから、それなり国際大会にも出場したはずであり、そこでの世界の実力なり、己の力量を確かめることができたはずである。
 それを分かった上でのメダル宣言、メダル目標発言だったのだろうか。「メダル目指します」の気持ちはいい。世界に向かって己の実力を高める、そうした意思を持つことは大切である。メダルを目指し、人生賭けてひたすらに努力する姿には頭の下がる思いさえする。

 だが、実力から考えてどうにも届かないメダルだとするなら、その意思を身の内のひっそりとした覚悟として自分だけに言い聞かせるのならともかく、他人に向かってメダル宣言をするなどというのは不遜であるような気がしてならない。
 そうだとするなら、まるで「東大」のジョークと同じである。私がノーベル賞宣言をするのと同じである。荒唐無稽な宣言なら「あっ、そう」などと無視されるか馬鹿にされるだけですむが、オリンピック選抜選手の発言ではジョークではすまされないだろう。

 メダル宣言の彼らは彼らよりも優秀な世界の選手が、例えばドーピング検査であるとか突発的な事故で参加できないことや、もろもろの事情で失格することなどを望んでいたのだろうか。それとも自分の身に神風でも吹いて信じられないような力を発揮できることを祈っての発言だったのだろうか。

 「今時の若い者は・・・・」というせりふは、いつの時代でも年長者から呟かれるきまり文句になっているけれど、もしかするとこうしたアッケラカンとした言い方に反発を感じるのはそうした発言のできる年長者に私自身がなってきたからなのかも知れない。

 そうした思いは、そもそも私の中に自慢げな話し方などにいささかの抵抗を感じる気持ちがあり、謙虚さや控え目と言った意識の中に人間らしさ、特に運動選手の矜持などを見ようとする気持ちが強いからなのかも知れない。

 だがしかし、もしかすると謙虚さとは自己主張の欠如を示すことであり、そんな気持ちは特にスポーツ、それもオリンピックのようなギリギリ自己対決をしなければならないような闘いの中では、持ってはいけない意識なのかも知れないとの思いがないでもない。
 嫌味に感じられるほどにも自分をアピールし、逆にそのアピールしたことのプレッシャーをエネルギーに代えて己の限界を僅かでも超えるような力を発揮できる糧にする必要があったのかも知れない。

 だとすれば届かないことを知りながらでも敢えて実行したアピールは、己の限界を超えるための最後の呪文なのかも知れない。だからその呪文がたとえ効かなかったからと言って、しょげることなどないのかも知れない。呪文はつまるところ意識レベルでの暗示であり、直接に筋力に働きかけるものではないのだから。

 でもどう見てもそんなつもりだなどとは思えないほど軽いのりの発言だし、私としてはやっぱりそうした呪文は自分だけにひっそりとかけるものであり、マスコミなんかを通じて他人の目の前で宣言したりするものではないのではないかと、ついつい思ってしまうのである。

 アッケラカンとメダルを獲ると宣言し、これまたアッケラカンと獲れなかったことをにこやかに笑いながら口にする若者たち。軽いことは若さの特権なのかも知れないが、その軽さの中に人生に対する考えそのものの軽さまで感じてしまうのは私の思い過ごしなのだろうか。4年に一度のオリンピックは競技の枠を超えて人生そのものを垣間見せてくれるような気がする。

 A カーリングの怪

 氷の上をストーンと呼ばれる人間の頭大の塊を滑らせて、どこやらビリヤードに似たゲームがオリンピック種目にある。参加した日本代表が予選敗退ながらそこそこ頑張ったものだから、オリンピックが終わった最近になっても、国内での身近な競技大会などで人気を集めている。

 そこでの競技の話である。オリンピック覚めやらぬ先日、オリンピック参加チームも交えて国内大会が開催され、その参加チームの中に北海道北見から来た中学生のグループがいた。
 どういう組み合わせでそうなつたのか、結果だけのニュースでしか分からないのだが、オリンピック選手チームとこの中学生チームが対決することになった。

 この中学生チームはそのオリンピック参加選手のいわゆる弟子のようなものだと紹介されていたから、それなり実力は持っているのだろう。その中学生チームが師匠に挑戦してなんと勝ったのである。

 負けた師匠チームの弁はこうである。「カーリングは奥が深い・・・・」。どこか変である。なんかとってつけたような言い方が更に変だ。

 100メートル、マラソン、スピードスケート、ジャンプ・・・・・、何でもいい。私はオリンピック参加選手が中学生に負けるような競技などあり得ないと思うのである。もちろん、先輩と言えども後輩に追いつかれ追い抜かれることなど世の習いだからそんなに不思議なことではない。
 だが、中学生と言えばまだ体格的にも技術的にも未完成の存在である。一方、現役のオリンピック選手と言えばプロフェッショナルである。プロとアマの違いを厳密に理解しての発言ではないけれど、オリンピックに出場することは、世界の頂点を目指して戦ってきた男や女たちの人生賭けた目標の一つであり、そこまでの実力を客観的に認められたということではなかったのか。

 挑戦して勝った中学生は、「偶然に偶然が重なって・・・・・」と話していたけれど、本当に偶然なのだろうか。その結果が本当に偶然の所産であるとするならば、カーリングとは偶然を競うゲームなのだろうか。

 もちろんどんな競技だって偶然はある。マラソンコースに暴走トラックが逆走してきてトップ集団をなぎ倒すことだってないとは言えないだろうし、トライアスロンのトップ選手全員が雪崩に巻き込まれることだってないとはいえないだろう。

 ただそうした天災ともいうべき偶然ならともかく、カーリングは得点コーナーに配置されている敵味方のストーンの位置、それに対する自己の投げるストーンのベクトル(力と方向)、そして氷の摩擦係数との計算によるものであろう。そこに人為を超えた偶然がないとは言えないけれど、その偶然をぎりぎり排除し己のストーンに勝つための意思を与えるのがプロとしての訓練と実力ではないのか。

 だが今回の中学生との試合にはそんなハプニングともいえるような事件などなにもなかった。少なくとも見かけ上は対等の普通の勝負に見えた。
 中学生の「偶然に偶然が重なって・・・」の発言を認め、負けたオリンピック選手の「カーリングは奥が深い・・・」という言い分を認めるならば、カーリングとはそれほどの実力など必要としない偶然だけに左右される、いやいや、もっと言うなら偶然だけを利用した競技だということになるのだろうか。
 もしそうだとすれなら、カーリングなんてのはオリンピック競技としてなんぞ認める意味などまるでない、ジャンケンと同じようなものだと思ってしまってもいいのではないのか。

 マラソンの優勝候補と目された選手だって、その日の調子によっては負けることだってあるだろう。だがそれとこのカーリングの中学生に敗退した事実とはまるで違うと思うのである。
 「カーリングとはオリンピック選手とだって対等に戦うことができる競技なのです。カーリングとはそんな奥の深い競技なのです。」なんぞと安易に評価してはいけないのだと思うのである。
 オリンピック参加選手は例えば病気や怪我や事故などのような万人が理解できるような特別の事情なくして、素人に負けることなど決してあってはならないのである。そこにこそオリンピック参加の意味、オリンピックを目指す意味があるのではないのか。

 だから私は中学生の勝ったことを快挙だなんてとうてい思えないでいるのである。むしろ、この事実にやりきれないような、持って行き場のない腹立たしささえ覚えてしまうのである。



                        2006.3.10    佐々木利夫


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