やっぱり夏なんだなと、汗だくになりながら自宅から事務所まで毎日片道45分、歩数計をズボンのベルトにはさみながら約5000歩をてくてく歩いている。サラリーマン時代には職場で裸になって下着を取り替えることなど決してできなかっただろうけれど、今では下着一枚をカバンに押し込んでの気楽な出勤である。しかも1人の事務所はドアの外に外出中の札を下げ中からロックしてしまえば、誰に遠慮するでもない一人天下のホワイトハウスに様変わりするだけでなく、冷房、シャワー完備の気まま空間でもある。

 さて、そんな気楽な事務室でうとうと昼寝していて、「目が覚めたら脳梗塞だった」という一年前の事件はすでにこの場で発表した(「思いつくままに」(平17年)、我がミニ闘病記)。

 それまではそんなに気にすることもなかったのだが、新聞テレビで熱中症や脳梗塞の話が耳に入りだすとやたら気になるようになってしまう。まあどこまで真剣に聞けばいいのかはよく分からないのだが、水飲めだの運動しなさいなどの健康番組がけっこう気になりだしてくる。

 さて昨年の入院で、よく分からないままに言語療法、作業療法、理学療法などのリハビリが毎日のように繰り返され、退院に当たってはそれぞれの担当者から、自宅に戻っても継続するようにと自己訓練すべき内容の書かれた紙切れを渡された。

 事務所開いて昨年で7年になったのだが、毎日歩いて出勤する以外、特に脳梗塞なんぞに注意した生活を送ってきたわけではない。これまで水分補給などと言う考えすら頭になかったから、考えてみると一日事務所で過ごしていてもせいぜいがコーヒー1〜2杯という生活であった。

 どこまで運動や水分が必要なのか良く分からないけれど、入院時やその後の定期的な血液検査の結果、更には自宅での毎日の血圧測定値などから見る限り、とりあえず血圧と糖尿には心配がなさそうである。だがあちこちで見かける「血液ドロドロと脳梗塞」なんぞという、いかにも脅迫めいた文言にはついつい引きづられてしまう。とにかく事務所での水分補給約1.5リットル+コーヒー2杯程度を毎日実践するよう覚悟を決める。

 ただこれだけの水分を水道水だけで満足させるというのも芸のない話である。しかもやってみて分かったことなのだがこんな量の味も素っ気もない水を、そのまま飲むというのはけっこうな苦行であり、途中で飽きてしまって長続きさせるのは無理に近い。だからと言って市販の大きなペットボトルのお茶やスポーツドリンクを毎日のように仕入れるというのも面倒な話しだし、第一継続するとなると費用の面でも馬鹿にならない。

 ところが、そう思って眺めてみると、スーパーや100円ショップなどには、ティーパック入りのお茶などの小袋を50も60も詰め込んだ様々なお商品が置いてあり、1リットル当たり1〜2袋で湯出しするようにと書いてある。
 これならウーロン茶、杜仲茶、プーアール茶、うこん茶などなどお望みの品揃えがあるし、味にどこまでついていけるかはともかく、コ゜ーヤ茶とか黒豆緑茶、減肥茶などという得体の知れないものまでバラエティーに富んでいる。

 これだけの種類があれば根があたらしもの好きの私である。とっかえひっかえ試していれば、そのうち、好みの味も見つかることだろう。かくして水分補給のルートは決まった。あとはリハビリの継続である。

 ところがここでも問題がある。先に書いたリハビリ指導員の渡してくれた作業内容は、基本的に自宅で行うことが前提になっている。それはそうだろう。患者がサラリーマン現役にしろ寄る辺なき老人にしろ、通院で指導を受けるのでもなければ自宅以外に訓練の場所などないのが道理である。

 だが朝飯食って(別に朝飯前でもかまわないのだが)パジャマ姿のまま食卓の前で口突き出したり、タオルを片手で丸めたり、部屋の対角線を歩いたりといった行動を、それもこうした訓練の当然の結果ではあるのだが自分ひとりで黙々と実行するというのは、一日や二日ならともかく毎日というのは気持ちの上でけっこう億劫さが先に立つ。

 さいわい私には歩いて通える事務所があるではないか。退院するときは万が一を考えて地下鉄のエスカレーターやエレベーターの設置状況を調べたものだったが、小走りする行動には多少違和感はあるものの歩くことに支障はなくどうやら徒歩通勤が可能であることが分かった。
 そうなれば訓練の一つである理学(運動)療法は徒歩通勤を続けることでクリアーできることになる。

 さて徒歩通勤とは文字通り徒歩である。歩くことには色んな意味があるだろうけれど、必要なのは当面足だけである。右足と左足を交互に5000回繰り返すことでおのずと事務所に着くことになる。
 歩くことは、きょろきょろあちこち眺めながら移り行く季節を感じることでもあるが、そのために特に顔も口も必要とはしない。ならば歩きながらでも口の訓練は可能である。

 ただ、すれ違う人もいれば同じ方向に向かって歩いている人もいるから、大声でわめきながら歩くのはどうかと思うけれど、「唇や舌を突き出す引っ込める」、「舌突き出して左右に振る」、「舌を左右の頬の内側から押し付ける」なんてのは、他人に正面から顔を見られながらやるというのならばいささかの抵抗はあるけれど、この時間人通りはそんなに多くないし、そこはそれ妙齢の女性とでもすれ違うようなときには小休止することにして充分対応可能である。

 病院からもらった指導ペーパーとは内容的に少し違う部分もあるけれど、こうした口や舌の運動は顔の表情や発声などの訓練になるほか、フェィスエステと称する顔を若々しくする運動とも共通すると言うではないか。まさに一石二鳥である。
 我流の部分も多少含まれてはいるが指導ペーパーで指示された内容を一通り実行すると、概ね2400歩くらいで訓練は終了する。かくして言語療法はこの方法でクリアーである。

 しかも、しかもである。この口運動が終わっても通勤は発寒中央駅を少し過ぎた所であり、通勤経路としてはまだ半分である。口や顎が少し疲れてきてはいるが他には何の問題もない。さて、リハビリにはまだ作業療法が残っている。作業療法の主な内容は指先の訓練である。

 病院では指を折って数えたり、豆粒を指先でつまんで瓶の中に入れたり、固い粘土を指先や手のひらで団子状に丸めたりしたのだが、指導ペーパーではテーブルの上に広げたタオルを指先で手のひらに丸め込むというものであった。
 歩きながらでは無理なので代替として片手にタオルをぶら下げ、それを指で丸め込みながら歩くという方法も考えたのだが、背広にネクタイ姿でタオルをぶらぶらさせながら歩くというのはどうも様になりそうにない。
 それに倒れた当時は左手が思うようにならずこの先どうなることかと心配したパソコンキーボードの操作だが、退院時にはどうやらいつも通りに近づくまでになっていたことから、細かな指先の訓練はキーボード操作に任せることにして別な指運動を思いついた。

 それほど大したことではない。指を折って数えるという訓練にヒントを得た、単に片手の指を握りしめたり広げたり、時には数えるように一本ずつ折ったり広げたりするだけのことである。なぜ片手なのか、簡単である。カバンを持っているから片手しか使えないのである。右手100回、左手100回、これを事務所に着くまで繰り返すことにした。
 これは簡単であった。特に苦痛もないし楽にできる。秋口から始めて冬に入ったが手袋をはめたままでもできるのが気に入った。

 ところが春先になって少し問題が出てきた。冬は手袋がクッションになってあまり気にならなかったのだが、手袋を脱ぎだすと、握ったときの爪先が手のひらに食い込むのである。もちろんきちんと爪の手入れを怠らなければそれほど問題はないのだが、指を握ったときの爪先はどうしたって手のひらの同じ場所を同じように刺激することになる。だからこの動作を毎日繰り返すとなるとけっこう爪先からの刺激がこたえてくるのである。

 そんな折、100円ショップでいいものを見つけた。ハンドグリップである(タイトル左の写真参照)。X字型の鋼鉄スプリングに握りをつけた、それだけのものであるが、なんと商品に添えられている宣伝文句が泣かせるではないか。
 「繰り返すことにより、筋力アップに加えて血流も良くなり頭の回転も良くなります」

 いまさら頭が良くなったからと言ってどうということないとは思っているのだが、それでもこの殺し文句はけっこう効いた。ここでも僅か100円の投資で一石二鳥の効果である。指先ではなく握力の運動になるけれど、先にも書いたように指先の運動はパソコンキーボードに任せることで解決済みである。
 かくして言語療法で残った通勤時間の半分はこの「握ぎ握ぎ」を右100回、左100回と代わるがわる事務所到着まで繰り返すことにし、これで作業療法もクリアーである。

 さてこれで徒歩通勤を利用したリハビリシステムは完璧である。NHKの朝の連続ドラマ(現在は「純情きらり」)が終わって8時30分、JRの線路沿いを札幌方向、東に向かって歩きのスタートである。
 脳梗塞の影響は今ではなんにも感じてはいないけれど、BMI(肥満度)25.6、体脂肪率21前後、内臓脂肪レベル15はやや太り気味である。加齢と共に運動不足になるというし嚥下や会話の機能の低下も起きるという。なんと言っても歩行中のリハビリまがいの運動には先に述べた一石二鳥の二鳥部分も期待できるではないか。

 晴れていれば夏も冬もほぼ真正面から太陽が顔を打つ。似合う似合わないは論外、日焼け止めクリームとサングラスは歩行の必須アイテムである。

 線路沿いのこの道は、白い花が吹雪のように降りかかり真っ赤に色づいた葉が靴先を訪い、そして赤い実に新雪の降り積もる、街路樹ななかまどの道である。せいだかあわだち草の黄色い花や冬枯れにも雄雄しく屹立しているすすきが風を知らせてくれる道である。ポプラや桜が時々の今を教えてくれる道である。

 そんな風景の中を、顔面くねらせ、ハンドグリップの握りを繰り返しながらひとりのサングラス男が歩いている。とてもじゃないが絵にならないこと、百も承知の脳梗塞一年始末記である。

 ところで、脳梗塞には手足や言語などの機能障害のほかに認知症や感情失禁などの精神的な影響が出ることもあるという。そうした影響を私は受けているのだろうか。
 とりあえずホームページへの気ままなエッセイの発表を毎週1〜2本必ず実行することを自らに課し、その実績をチェックすることで思考能力の変化の検証ができるのではないかとも考えた。だが、発表する数はともかく自分の作品の出来栄えを自分で検証するというのは現実的にはけっこう難かしいものがある。

 分かったことが一つ。エッセイのジャンル「どこか変だなと感じること」に載せる作品は、へそ曲がりとしての私の意見を述べるものだが、その発表数が実は今回で昨年一年分と同数になった。後遺症のせいでへその曲がり方、偏屈さ加減がいささか肥大化してきているせいではないかとの診断もできるのだが、まあこの程度の曲がり具合ならエッセイのネタが増えていることでもありその方がいいではないかと、これまた無責任な自画自賛の言い訳も出てくる始末で、かくも自己診断と言うのは困難である。

 さて窓の外が陰ってきて午後6時が近い。水飲み、リハビリにどの程度の効き目があるのか分からないけれど、発症から一年が過ぎともかくも今のところ元気な日常が戻ってきている。朝日に向かって歩き出した同じ風景の中を、そろそろ夕焼けを道連れにフェィスエステの時刻である・・・・。



                          2006.08.17    佐々木利夫


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脳梗塞一年始末記