新聞テレビなどでの情報だけれど、ここ数年人と熊の出会うチャンスが急に増えてきているような気がしている。特に今年はそうしたニュースが連日のように報道され、つい先日も近くの馴染みのスナックでママの自宅付近にも出没したことが話題になったくらい、札幌でも他人事ではなさそうである。

 季節としては秋も深まってきて、熊も冬眠の準備にかかってきていることが一番の原因なのだろうが、人が宅地開発にしろ山菜狩りにしろ山奥へ踏み込んでいくことが多くなったせいなのか、それとも反対に過疎化が進んでゴミや畑の野菜などを放置したまま山から人が消え始めたからなのか、はたまた山での熊の食料の生育が悪いせいなのか。熊の気持ちの推し量りようもないので、それ以外にも原因があるのか素人には判断が難しいが、とにかく人と熊との遭遇が多くなってきているのは事実らしい。

 だからなのだろうけれど、最近のラジオでこんな番組が放送されていた。熊が里山近くへ下りてきて人に加害したそうである。そのためその地区の自治体では檻を設置して熊を捕獲することにした。
 そこで、その地域の高校生が捕まえた熊を自治体がどんな風に処分しているかについて住民からのアンケートをとったことへと話題が移る。

 アンケートの対象とされたのは地域住民と高校生の2グループである。正解を答えたのは一般市民が30パーセントくらいだったのに対し、高校生グループは100パーセントに近かったそうである。
 この結果に対しこのアンケートを企画した高校生の代表は、「正解は『発信機をつけて山へ放し観察する』です。私たちはあらかじめこの方法で熊の生態を観察している団体から講話を受けていました。だから熊の実態ついて十分話を聞いていたので正答率が高かったと思われます」、と誇らしげに語る。
 しかもこの話を取り上げたアナウンサーもこの高校生との対話の中で、正解率の高さに触れながら「やはり教育が大切なんですね」と同調する。

 アンケートというのは意識調査だろうから、その結果に正答だとか誤答などと呼ぶこと自体どうかとも思うけれど、この話しはそれ以上にどこか変である。高校生がクラスの中で、捕獲した熊の処分についてどうすることが正しいのかを互いに議論した結果として一つの意見にまとまっていき、その成果として発信機という答えへ到達したというのならその誇らしげな態度に異論はない。
 だがこの生徒たちは始めから正答を知っているのである。熊の命についての議論を互いに交わすこともなく、熊の生態を調査している団体の職員から講習を受けて、その団体が熊に発信機をつけて山へ戻し継続して観察していることをあらかじめ知っていたのである。

 だとするなら、その正答は教えられた正答である。始めから答えの分かっている質問へその分かっている答えにそのままチェックをつけただけのことである。質問が三択なのか五答択一なのか分からないけれど、ペーパーテストで正解にチェックをつけることと、「その正解を分かること」とは違う。ましてや教えられた答を書くなんぞ、それを教育の成果だなんて呼んではいけないのではないか。

 このことは例えば運転免許試験で、「酒を飲んで運転してはいけない」と「酔っ払っていなくてしっかりしていれば運転してもかまわない」があったとき、恐らく全員が運転してはいけないことにチェックをつけるだろう。にもかかわらず現実にはこんなにも酒酔い運転が日常化しているのは、知識と理解のギャップ、つまり知ってることと分かっていることとの違いがどれほど大きいかを物語るものである。

 しかも本件の場合、熊に発信機をつけて山へ戻すことが唯一の正答なのではない。その場で射殺して熊肉の缶詰にすることだって、動物園へ送り込むことや熊牧場などに引き取ってもらうことだって、熊の処分としての選択肢として当然にありうることである。

 もちろんその自治体ではそうした方法を選ばずに山へ戻すこととした。だが放した熊による再度の加害の可能性にどう対処するのか、熊がどんどん増えていったらどうするのか、現に熊の被害を受けた人の感情や農業被害などとどう向き合うのか。

 なんでもかんでも殺してしまえなどとは思わないけれど、熊に発信機をつけたところで、熊が人里に近づいた警告は出せるかも知れないが、人が知らずに熊に近づいていくような場合にはどうするのか、警告すると言ったところで「熊出没注意」の看板や「熊に注意しましょう」の有線放送など以外に具体的にどんな有効な手立てがあるのか、などなど未解決の問題は山積している。

 恐らくその高校生は「殺処分」でないことに意味を持たせているのだろう。そしてアナウンサーも同じような意味で同調し、ともに命を大切にする心をこの高校生のアンケート結果に見たと思ったのだと思う。しかもその命への思いを事前に行った講話という教育の成果としてである。

 だが考えても見て欲しい。このアンケートの正答率の高さは決して教育によるものではない。アンケートには必ずや殺処分を含めたいくつかの選択肢が書かれていたはずである。

 私は逆に高校生が「熊の処分として何が正しいのか」についてきちんと議論し、様々な意見を真剣に交わしたのならば、「発信機をつける」という答にこんなにも全員のチェックが集まることなどなかったと思うのである。
 むしろ私はこの高校生の正答率が100パーセントに近かったということに対して、高校生が嘘をついているか、もしくはなんにも考えることなく教えられた答を無批判に選んだのだとさえ思うのである。「発信機」にチェックをつけたのは事実だろう。
 だがそれは答えをあらかじめ知らされていたからであり、己の意見など思い巡らすことなく直前に受けた講話の意見を鵜呑みにしたまま表示しただけに過ぎないと思うのである。

 「人間以外の熊にも命のあると感じること」、そのことに否やを言うのではない。ただ命の問題は自分の力で考えて欲しいのである。熊にも命のあることを単なる知識や動物愛護などという観念論からではなく、目の前にある現実の問題として考えて欲しいのである。

 宮沢賢治が童話「なめとこ山の熊」のなかで、またぎ(東北地方の狩猟をなりわいとする人たち)が熊の命に触れていることについてはすでに発表した(「ホームレスが殺された」参照)。
 どんな場合でも殺さないことが絶対的な正義だなどとは思わないで欲しい。人は少なくとも人以外の他者の命の上に生存している事実を忘れてはならない。「人以外」などと注釈をつけること自体どこか不遜な気がしてならないけれど、命の問題をそんなにあっさりと分かったつもりになって欲しくないのである。
 ましてや「山へ放す」ことと「殺処分」とを善と悪との対比の問題としてなど決して考えて欲しくないのである。

 因みに、冒頭に書いた札幌市内に現れた熊は射殺されたとのことである。動物の命を無視した残虐非道な処分だとお考えですか。


                          2006.10.03    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



熊の処分