「無関心こそ最大の罪である。同じ社会に生きる人間として、
          一人ひとりが問題を共有して考えよう」。

 三年後に実施される裁判員制度に対する法務省のPRビデオの中のセリフだそうである。言ってることが分からないではない。平成16年に司法改革の一環として「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が公布され、裁判は裁判官専決というパターンが根底から覆ることになった。

 傷害致死などの重大事件の刑事裁判に、選挙人名簿から無作為に抽出された国民6人が裁判員となって参加し、例えば英米の陪審員による有罪無罪の審決よりも更に一歩踏み込んで量刑にまで関与することになったのである。

 実施時期が三年後の平成21年5月と目前に迫っているにもかかわらず、世論調査やアンケート調査などによるとこの制度を知らない人も多く、聞きかじりにしろ聞いたことのある人も相当数が裁判員にはなりたくないと感じているようである。つまりは大多数の人が裁判院制度の意義を理解するにしろしないにしろ、自分を無関係の立場に置こうとしているのである。

 こんなに切羽詰った時期になってもこんな状態では、実効ある運用などとても心もとない限りだと法務省があせりだしていることはよく分かる。
 裁判員制度と言うのは司法制度にとってまさに国民を巻き込んだ大改革であり、それは単にお上のシステムが変わるというのではなく国民自身が裁判や判決に原告・被告という立場でなく審理そのものに直接参加するという意味で、歴史的な改革であるとも言っていいだろう。

 そんな歴史的な大改革を前に国民自身が逃げ腰になっている様子だから、「そんな弱腰でどうする」、「もっとしっかりせい」と法務省は言いたかったのかも知れない。

 実は日本でも陪審制度が導入されたことがある。陪審法が昭和3年(1928年)に施行され、484件の裁判に適用されたが15年後の昭和18年に停止(廃止ではない)されたままになっている。つまり現在でもこの陪審法はほとんどの人から忘れ去られてはいるのだが、法律としては生き残っているのである。

 それにしても「無関心こそ最大の罪」というこのセリフは、どう考えても発言者の身勝手な思い上がりによるもののような気がしてならない。このフレーズは裁判員制度のPR用語として当初から使われており、どこか気になっていることについては既に昨年ここに発表したところだが(「無関心の罪」)、これほどの強烈なアピールにもかかわらずその後国民の関心度はあんまり改善されていないらしい。

 無関心さを危惧する対象を包括的に何と呼んでいいか分からないが、社会が承認していると信じられていたり、特定のグループや個人が善だとか正義などと思い込んでいることがらなどについては、必ず関心を持たねばならないのだと、このセリフはどこか強要めかして要求していると思えてならない。

 サッカーで日本チームを応援すること、死刑制度について考えること、教育や福祉や環境などについて興味を持つこと、パソコンウイルスや税金や政治や福祉や金融や戦争などなど、それに我が身に降りかかる様々な人間関係や家族の問題などを含めるなら、人が生きていく上で考えなければならないテーマはいつの時代だって山のように溢れているだろう。

 「逃げるな、真正面から対決せよ」は、言葉そのものとしては否定のしょうがないほど正論として確立されていると言ってもいい。

 だが、本当に無関心は罪なのだろうか。しかもそうした無関心の中でも特定の無関心については「最大の罪」として糾弾されなければならないものなのだろうか。無関心が生きていくための息抜きになり、束縛からの開放だと感じる人がいたとしたら、その人は罪人なのだろうか。

 若者の中に無関心が急速にはびこってきていることに気がかりさは感じているけれど、だからと言って「関心を持つべきだ」と無理やりに顔を向けさせらるような行為にはどうも抵抗が残る。

 法務省のこのキャッチフレーズを刑事事件の罪として示しているのでないことくらい誰にでも分かる。国民としてきちんと関心を持ってもらいたいという気持ちから出た一種の警句であろうことは、誰にも理解できるだろう。

 にもかかわらず法務省が、いや法務省の言葉だからこそこうした「罪」という語をあまりにも安易に使ったこうした表現に、国民に教えるとか導くといった不遜な驕りみたいな意識を感じてしまうのである。

 同じ今朝の新聞の読者投稿にこんなのがあった。「『落語を見直し、教育に生かせ』という投稿を読んだが賛成です。若い教師の皆さんぜひ落語を身につけてください」。また同じく、「剣道保育で忍耐力を期待・・・自分の力で乗り越えられる強い人間に成長する」とも載っていた。

 法務省のキャッチフレーズ風に言うなら、「教師が教育に落語を生かさないのは罪です」、「保育園で剣道を取り入れないのは罪です」となるのだろうか。

 もちろんこうした言い方が、へそ曲がりの身勝手な屁理屈だということくらい百も承知である。ただ、頭の中のほとんどが無関心で構成されているこの身にとってみれば、こんな法務省の訳知り顔のセリフを聞くとなんだか理不尽な責められ方をされているようで、どうにも尻が落ち着かないのである。




                          2006.06.28    佐々木利夫


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裁判員制度と無関心