「リハビリ中止は死の宣告」だそうである。4年前の脳梗塞で重度のマヒが残った著名な医学博士のコラムでの意見である(平18.4.8朝日新聞)。
 政府が掲げる診療報酬改定で障害者のリハビリが発症180日を上限として実施できなくなることへの抗議の意見である。

 筆者の言い分はこうである。
 「リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は、人間の尊厳を踏みにじることになる。」
 特に違和感なく読み飛ばしていたのだか、筆者の顔写真を見て確かテレビのドキュメントで見たことを思い出し、どこか変だなと気になりだした。

 私はこの筆者が後遺症と闘いながら生活している姿や、熱心に学生を指導している姿をテレビで見た。特に後遺症は残らなかったものの、同じく脳梗塞を経験したものとして(我がミニ闘病記参照)その姿を我が身を重ねることもできた。嚥下障害が残っているので、ウィスキーの水割りにとろみ剤を加えて飲んでいる姿も見た。

 何をもって幸福と言うべきかは色々あるだろうが、自宅を持ち、書斎を持ち、大学教授と言う職業持って学生を指導する彼の生活、そして自らも言っているとおり文筆生活を送っているという姿は、脳梗塞の後遺症はともかくとしていわゆる恵まれた者の優雅なスタイルに見えた。

 そこへこの意見である。彼の意見はこの投稿の出だしが「私は脳梗塞の後遺症で、重度の右半身マヒに言語障害・・・・」から始まることからも分かるように、「私の場合」を基本として論を進めていっている。もちろん、「慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。・・・・そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。」、このままでは「リハビリ外来が崩壊する危機がある」との一般論も付加されてもいる。

 だが、「私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めない」し、「それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまい寝たきり老人になって衰弱死だ」、「私はその病院で言語療法を受けている。・・・・もし、180日で打ち切られれば一生話せなくなってしまう」とも述べて、全体を通して自らがこの制度改定の被害者であることが見解の中心になっている。

 この意見の原因となった背景は「診療報酬改定」である。いうまでもないことだが、診療報酬とは医療の対価そのものを示すものではない。ある診療に対して社会保険なり健康保険などと言う国民が基金を積み立て、その基金の中から個々の治療にいくらの支払いをするかというその額のことである。

 今回の改訂の背景は政府の見解によれば、「長期にわたり効果が明らかでないリハビリが行われているとの指摘を受け」、社会保障審議会が取りまとめた基本方針に基づいて厚生労働大臣が中央社会保険医療協議会(中医協)に対してなしたリハビリ期間を疾病ごとに4段階に分けてそれぞれに上限を設けるという諮問によるものである。

 もちろんその更なる背景には少子高齢化に伴う医療費の増大がある。つまりはこのままでは医療費は国民の負担を超えて増大の一途をたどるという恐れである。

 高齢化に伴う医療費増大に対処すべき施策には色々と意見もあるだろう。税金も含めて国民の負担を増やすのか、それとも医療費そのものを抑えるのか、はたまたその診療方法なり診療対価が適正なのかの検討などである。パイを大きくすることは保険料なり税金なり国民に対する重圧となり、そうでなければ医療機関の収入減につながり、場合によっては治療の質の低下という問題も起きよう。
 その話はここではしない。今言いたいのは「リハビリ中止は死の宣告」とする彼の見解に対してである。

 こうした話でも分かるとおり、リハビリの治療日数に上限を設けようとしているのは、社会保険診療報酬の改定の場においてである。決してリハビリ治療そのものを180日で禁止し、それを超えたリハビリのすべてを国家として阻害しようとしたり罰則を与えようとしたりするものではない。つまり、自力でリハビリを継続したり、自己負担による継続までをも禁じているのではないのである。

 彼の意見にはこの視点からの検討が欠けている。中医協への諮問の背景には「効果が明らかでない長期のリハビリがある」ことが前提になっている。ならばまず何をもって効果がないと判断したのかの検討が必要なのではないか。現実に効果がないのであれば、そんなケースにまで社会保険を適用すべき必然はないからである。

 そして長期リハビリでも治療効果があるのであれば、そのことを理解させたうえで、その効果に対する社会保険としての役割を重ねることである。なんでもかんでも社会保険に任せ切りにするのは誤りである。社会保険は打ち出の小槌なのではない。結局は加入者の負担が基本にある。どこまで社会保険の分野に含めるかは加入者の合意によるのだろうけれど、治療の範囲を超えて無意味な継続や筋トレ、健康増強や美容などの分野にまで支出が及ぶのは行き過ぎなのでないだろうか。

 こうした検討の結果、それでもなお社会保険として継続すべき合理性があると判断された場合ならその合理性を否定する改定には異議を唱える必要があるだろう。
 つまり改定意見と論者の見解との間には「効果が明らかでない」、「必要な効果が得られる」の対立があるのだから、そこをきちんと評価しながら論点を整理していく必要があるのではないかと言うことである。

 にもかかわらず彼の意見は、改定の背景になった「効果の明らかでないリハビリを社会保険として容認すべきでない」という視点に対する評価を無視し、弱者が存在するというその弱さだけを背景にした身勝手な意見のように思えてならないのである。

 リハビリを受ける者が健常者に比して弱者であるというなら、それはそれで認めてもいい。しかしその弱者とした評価はリハビリが必要だという場面に関してのみであり、そういう人をリハビリ以外のすべての面でも弱者として認めなければならないというものではない。
 私は彼の意見の中に、弱い者はどんな場合も正義であり、一律平板化こそが平等の正義なのだというぬぐいがたい思い込みがあるような気がしてならない。そしてその弱者の中に無批判,無検討に自分をを含めたリハビリを受けている全員を無理やり押し込めようとしているような気がしてならないのである。

 私は彼の論点の中にどうして自らの資力で解決すること、自らの努力でリハビリを継続するという視点、場合によっては自力での負担に耐えられないとする自身の現実などについての説明がないのか疑問なのである。
 彼は例えば生活保護を受けているようなそんな自助努力が困難な者の代弁者としてこの主張をしているのではないことは前に述べた。そして少なくとも以前に見た彼のドキュメントによる限り、彼は尊敬される職業と実力を持ち、それに伴うであろう安定した収入を将来とも約束された生活を送っているように見えた。

 リハビリの中止が死に結びつくようなケースがあるのかどうか、そうしたケースがあるにも関わらず今回の改訂はそれを無視してなされようとしているのかどうか、そのことについて彼は一方的に自分だけの主張を繰り返すだけで改定の意味や社会保険料を負担している者の意見などを少しも取り入れようとはしない。

 もちろんお金は大切である。自分の家を持ち、贅沢三昧のできる生活をしていたところで例えば無償で治療してくれる制度がその人の生活の邪魔になることはない。
 また、社会保険制度は互助精神が背景にあるのだし、裕福だから病気になりやすいとは言えないのだから、その拠出に関しても裕福な者が多く負担し貧しいものには負担を軽減するという考えが必ずしも合理的でないことも分からないではない。

 今回のリハビリ改定の背景はつまるところお金の問題である。国民から集めた基金をどう使うのが合理的かにある。180日を超えたリハビリを認めないとしたのは、社会保険による治療としては基金からの支出を認めないというだけのことである。

 そこのところで私は、どうして彼が「一定期間を超える部分のリハビリを社会保険診療として認めない」ことと「その中止に伴う死」とを結び付けてしまうのかが理解できないのである。
 仮に今回の改訂が理不尽極まりないもので、しかもリハビリを続けないことによって死を招く場合のあることを認めたとしよう。ならばそうした場合に、彼はその社会保険の改定された基準に従って慫慂と自らの死を待つのだろうか。

 リハビリ行為が社会的な犯罪であるとして禁止されたのではない。たかだか社会保険診療から保険外診療になっただけである。そんなことのために資力ある彼が禁止されていないにもかかわらず自発的なリハビリによる訓練を選ばずに、社会保険が認めていないという理由だけでリハビリを中止し自らの死を仕方ないものとして受け入れるとは到底思えないのである。
 難病や臓器移植などで会社を退職し自宅を売り払い、それでもなお闘っている人がいるのだからすべての人がそうすべきだと言っているのではない。

 だが、少なくとも今回の改定では個別問題にしろ決して彼には訪れないであろう死に対して、安易に「リハビリ中止は死の宣告」だとする意見がどうにも納得できないのである。死をテーマとしていながら死に対する実感が皆無と言っていいほど伝わってこないのである。

 例えば災害や事故などで一時的に商売ができなくなった人などが口にする慣用句に、『死活問題です』というのがある。言葉としてはまさに死ぬか生きるかということだが、言う方も聞くほうもそうした現実に生死を感じているわけではない。「参った、参った」程度のニュアンスで言い、「頑張ってください」と励ます程度ですます会話の中での用法である。

 だが彼はそんな慣用的な用法で「リハビリ中止は死の宣告」と書いたのではないことは、記事を読んでみればすぐに分かる。社会保険からリハビリが外れたくらいでは絶対に訪れないであろう彼の死という事実を、余りにも安易に使うことに逆に嘘っぽさを感じてしまい、何だかそこに弱者の影に隠れた強者の驕りと傲慢みたいなものが見えるような気がしてしまったのである。

 もちろん今回の改訂が理不尽だとした場合、一般的な問題として経済的弱者にとってはそのことが致命的になるケースがあるかも知れない。そうした時、そうした者へのセフティーネットが抜けているとするならそれは制度の欠陥として当然に是正すべきだとは思う。
 だが、厚生労働省の意見では、そうした恐れのある場合には介護保険の適用があるとしている。彼はそうしたことについても一切触れようとはしていない。

 きちんと理解しているわけではないが、いわゆる保険の効かない治療は多数存在するだろう。その中には検討すべきものだってたくさん含まれているだろうと思う。社会保険制度といえども人の作った制度であり万能ではない。限られたパイをどう有効に使うかと言う視点も必要だけれど、一定のコントロールをしなければパイは無制限に肥大するという問題も残されている。

 私は彼が今回の改訂のシステムそのものに対し客観的事実を示して異論を唱えているのならこんなふうには感じなかったと思う。改定の前提となった諮問に対し、「効果のないリハビリなどあり得ない」とするならその旨、もしあるのならばそのことにどう対処すべきかの意見、例えば180日のような画一的な基準を設けた場合に発生するであろういわゆる落ちこぼれ対策が欠けているとするならそのことへの裏づけある提言、そうした誰にも理解できる提言をすべきだと思うのである。

 そうした意味で彼の意見は公私混同というか、あまりにも自身の感情に偏った提言になっている。
 私は社会保険システムは一種の平均だと思うのである。特定の地域や個人や環境などになるべく偏らないで人々が治療を受けられるシステムを構築することが、国民皆保険と言う枠組みに沿うのではないかと思っている。

 「弱者こそ正義、強者は常に悪」は、とっつきやすいテーマである。一人でもそのシステムから脱落した弱者がいると、そのことをことさらに取り上げてそのシステム全体を強者の独断であると断じるのはマスコミやテレビカメラを意識した識者と呼ばれる者の悪しき習癖である。

 どんな場合でも被害者は救済されるべきだとする思い込みが、今の世の中余りにも多すぎるのではないか。被害の事実を否定するわけではないけれど、少し考えてみればどこか被害者にだって「オメーの不注意じゃないかよ」とか、「あんまり欲の皮つっぱらかすからよ」などと言いたくなるケースや、「なんでもかんでも他人様に頼るもんじゃないよな」などと呟きたくなるケースがチラホラ見え隠れしていることにけっこう気づかされるのである。



                        2006.4.10    佐々木利夫


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リハビリ中止と死の宣告