帯広は北海道では内陸部に位置しているが、サンマ漁で賑わう釧路の隣町みたいなものだから、シーズンともなると魚屋やスーパーの店頭にはいち早く生きのいいのが並ぶ。
 漁期が決まっているから、そのシーズンこそがサンマの美味い時期だし獲れる量も多い。だから店頭でも派手に売られるようになる。もう昔と言ってもいいほどの遠い話であるが、その帯広に単身赴任で2年間過ごしたことがある。

 単身赴任だからと言って飲まず喰わずで過ごすわけではない。一面気楽な生活ではあるがそれなり代償もあり、まず第一に健康管理も含めてきちんと三食食べることが基本であり、単身なのだから自らの手で用意する以外にない。三食とも自分で作るというのは多少大げさだが、少なくとも朝は必須、飲み会のない限り夕食も自作だし、気が向けば昼飯も自作して職場へ向かうことだってある。だから冷蔵庫は必需品だし慣れない手つきでスーパーの籠も持つし、市場の店先を覗いて歩くこともある。

 買い物しながら気づいたことがある。仕事は午後5時までだが、なんだかんだぐずぐすしていると職場を出るのは6時過ぎになることが多い。
 そんな頃に買い物に行くと、食料品売場、中でも生鮮食料品売場を中心に安い値札に付け替えた販売が始まるのである。日足の早い商品、賞味期限の近づいた商品などで明日以降定価で売り切る自信のないものはとりあえず夕食の主婦の買い物のピークを過ぎた頃を狙って処分してしまおうと考えるのはまあ当然かも知れない。

 そうした時、実は困った事態が起きる。何と一匹20円ほどで売られているサンマが10匹以上もどんと盛られて、「一山100円、さあ持ってけ、持ってけ」などと威勢のいい声がかかるのである。
 さあ、どうする。いったんは素知らぬ顔でその場を通り過ぎるのだが、頭の中にはたっぷりの未練が残っている。まるでただみたいな値段ではないか。飲み屋の払いには100円も1000円もあんまり気にしないくせに、日常の買い物となると感覚が違ってくる。まるで専業主婦のイメージそのままである。そして結局この身もそのイメージ通りのパターンをとってしまうことになる。

 重いナイロン袋を持って官舎へ帰り、台所の流し槽にぞろぞろと投げ込むのだが、その量の多さに改めて気づかされる。臭いもけっこう気になるので、手早い始末が必要である。だからと言って一気に食ってしまうことなど土台無理である。

 かくしてストーリーは「サンマの食い方」へと移る。サンマといえどもその食い方にはいろいろあるだろうけれど、男1人の所帯としては手っ取り早くガスコンロで焼くのが定番であり、せいぜい10回に1回程度ぶつ切りにして生姜のかけらと一緒に骨まで柔らかく煮込む程度の料理が関の山である。
 とは言っても毎日朝晩サンマを食い続けると言うのもどこかしんどいものがある。それなりの長い期間をかけなければ食いきれないであろうことは始めから分かっていたはずである。せいぜい2〜3匹もあれば十分だと頭では分かっているはずであり、なんなら一匹だけだって十分に満足できるはずである。
 にもかかわらず目の前に広がる山盛りのサンマの量と臭いは、生活感覚のない単身赴任男のいいかげんさを如実に表している。

 一匹は当然に今晩のおかずである。残りはどうする。簡単である。次の我が食い方を読んでいただければどうしてそうするのか分かってもらえると思うが、ウロコを外しさっと洗って一匹一匹透明ラップに包んでそのまま冷蔵庫の冷凍室へ放り込むのである。それだけである。山盛りサンマは目の前から消え、処理完了である。

 まず今晩の手始めは焼きサンマにしよう。ただ、私のサンマの食い方は恐らく多くの人とは違うのではないかと思っている。サンマの美味さが内臓のほろ苦さにあることは多くの人が口にすることだけれど、実際のところほとんどの人がその苦さを味わっているとは思えない。
 始めから頭と尻尾を切り取り、内臓も抜き出して焼く人が多い。中には頭と尻尾を外すだけで、内臓は残したまま焼くという人もいるけれど、それでも食べるときは骨と内臓は捨ててしまいいわゆる「身」の部分だけ食べるというのがほとんどである。つまり、美味いと言われる本来の苦さを始めから捨ててしまっている人が多いのである。

 さて、私の焼き方と食い方である。包丁の刃で軽くウロコを落としたあと、そのまま丸ごと焼く。塩も振りかけないでそのまま頭から尻尾まで全部焼くのである。

 美味そうに焼きあがったら、端物なのだろう、どこかの夜店で一枚だけ買ってあったサンマが良く似合う(と勝手に信じ込んでいる)長方形の安皿へと載せる。飯は朝の残り物である。と言うよりは、夜の分も朝から炊いておいて冷凍してあるのでそれを電子レンジで暖めるだけである。他に味噌汁と野菜炒めなどの適当な惣菜があり、これに冷えたビールが加われば言うことなしである。

 さあ食うぞ。サンマは縦に食うのである。しょう油を2〜3滴垂らし、真ん中の腹のあたりを箸ではさみ一匹丸ごと持ち上げてそのまま頭のほうから縦に食い出すのである。もちろん頭が付いたままである。そうなれば必然的に最初の一口は口先というか鼻先というか、そのあたりから目ん玉付近までになる。
 このあたりは「これこそサンマである」と感心するほどの味ではないし、頭の骨がなんとなく口の中に残るような感じもするので始めから頭を食わない人の気持ちも理解できないではないが、それでもきちんと噛み砕いていくとそこそこいい味が出てくる。さてもう一口、頭が終わるといよいよサンマの本来たる身と中骨と内臓のまとめ食いに入る。少し焦げ目の着いた皮と一緒のこのあたりこそがサンマの醍醐味である。
 骨だってきちんと咀嚼すれば口に残るようなことはない。食べ進めていって最後はどうするか。理屈から言えば尻尾まで食えないことはないのだが、尻尾の部分はいわゆる鰭だけになっていて骨も身も残っていないからなんにも味がしない。そこで私はこんなにも私に満足を与えてくれたサンマに敬意を表するため、この尻尾だけは食べ終えた証拠として皿の上に残すのである。
 あたかも病院で体を輪切りにしながらレントゲン撮影をしていくCTスキャンと同じような食い方である。まさにCT食いである。

 かくしてサンマは最後部の尻尾だけを残してきれいに私の腹の中に納まるのである。シーズンのサンマは脂も乗っているし魚体も大きいから、一匹だけで十分に満足できる。
 考えてみれば僅かの尻尾を除いてゴミとして捨てる部分がほとんどないのであるから、環境に優しく合理的しかも経済的、健康にもいい食い方だと言えよう。

 並べてある魚が美味そうに見えるからなのだろうか。スーパーの照明は蛍光灯だったが、市場の魚屋の店頭にはなぜか裸電球がぶら下がっていたような気がする。ゴム製の大きな前掛けの店員、そして威勢のいい掛け声、ついつられて買ってしまった山盛りのサンマの量と重さ、単身赴任の帯広時代の台所・・・・。

 トレーごとラップに包まれ一匹単位で売られているスーパーでのサンマを見るにつけ、かつての裸のままで売られていたサンマをふと懐かしく思い出すのである。



                        2006.2.26    佐々木利夫


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サンマのまるかじり