裏切り者で
  なかったユダ
  
 今朝の新聞にユダの記事が載っていた(読売2006.4.7朝刊)。数十年前に発見され1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本だとされる資料をアメリカの科学教育団体が解読したところ、ユダがイエス・キリストの所在を官憲に密告し引き渡したのは裏切りによるものではなくイエスの指示に従ったのだという内容である。

 私はこの記事を読んで心底驚いたのである。こんな伝説的とも思える聖書の話が今もって研究され続けていることについてではない。3年前の平成15年に私がこのホームページで発表したエッセイ、「ユダの裏切り」と同じ結論だったからである。

 私はこのエッセイの中でユダの密告はイエスの指示によるものであり、彼こそがイエスを心から理解していた弟子だったのではないだろうかと結論づけた。今日の新聞の内容はなんと私のこの意見を全面的に支持してくれるものだったのである。

 もちろんこのエッセイの中でも書いたように、キリスト教について私が信者でないことはもとより知識としてもほとんど理解していない。ユダに関するイメージにしたところで、恐らくは太宰治の小説「駆け込み訴え」がその背景に色濃く存在しているのではないかとさえ思っている。

 福音書とはイエスの弟子たちによるイエスの言行録である。それは単なる伝記ではなく、イエスの死の意味を問い、その生と受難、死と復活に力点を置いたものだとされている。新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が載せられており、「ユダの福音書」は異端の禁書としてその存在は信じられていたものの内容を知る人はなかった。

 もっともものの本によると聖書に載っていない福音書の数は「トマスによる福音書」など優に42編にも及ぶとされ、それらは外典として聖書とは別枠で理解されているらしいから(それでもその中にこの「ユダの福音書」は含まれていない)、聖書といえどもそうした布教に合目的な役割を持たせた情報の集約と言う宿命から逃れることはできないものなのだと言えるかも知れない。

 ともあれ福音書の実際は伝承などをもとに後世になってから作られたものだと見られているが、今回の発表がこれまでの定説を覆すものであることや奇しくも私の意見に沿うものであることなどに、この記事を読んだ私は少し嬉しくなってはしゃいでいる。

 新聞による限り、3〜4世紀頃13枚のパピルスに古代エジプト語で書かれた「ユダの福音書」の写本は次のような内容を持つものであるとされている。

 この記録は「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの一週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自ら官憲へ引き渡すよう指示したという(同上新聞記事より)。

 解読した元ジュネーブ大学教授ロドルフ・カッセルは「(この記録が)真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としている。

 私のユダが裏切り者でないとする意見は単なる思い付きであり、聖書の記述からの独善的な推測であって何の証拠もない。いつもながらのへそ曲がりの特徴として、世の中が疑うことなくユダを裏切り者だと決め付けていることに、どこかで逆らいたいという気持ちが働いていたに違いない。

 それでもこの文章を書くためには部分的にしろ聖書を理解する必要があり、私が持っている古文さながらの文体で書かれた明治37年3月発行の「新約全書」(発行者ヘンリー・ルーミス、米国聖書会社発行)を読んだり、ネット上で聖書の訳文をさがしたり、ついには通勤途中にある教会を訪ねて現在の聖書でユダはどんなふうに書かれているかなどを調べた経緯がある。

 その上で、イエス自身が弟子の裏切りと我が身の逮捕(処刑、つまり自らの死を意味する)を予言していた(あらかじめ知っていた)こと、ユダは裏切りの後その裏切りの報酬に手をつけることなく自らの命を絶っていること、イエスの処刑の意味と効果、そしてその後のキリスト教の飛躍的な発展などから、ユダの行為はイエスの仕組んだシナリオによるものであり、彼はその指示に忠実に従っただけに過ぎなかったのではないかと結論付けたのである。

 キリスト教は一神教という性格からくるものなのかも知れないけれど、どちらかというと偶像を拒否し他教を排斥するというすざまじいまでの排他性と狭隘さをもつ宗教である。日本と言う国が八百万(やおよろず)の神を認め異質な外国の宗教さえもその中に取り込もうとする風土を持ち、私自身がそうした風土になじんでいるからそう思うのかも知れないが、十字軍の遠征や布教の歴史、宗教改革などなどを知るにつけキリスト教ほど血を流した宗教は他にないのではないかとさえ思っている。

 もちろん私にとってユダが裏切り者であるかないかは単なる興味の分野にしか過ぎない。だが、宗教が単なる救いの分野を超えて科学や政治や哲学、更には文学や人の生き様にまで深く影響を与えている様々、そして頑なとさえ言えるような狭隘さを持つキリスト教を背景に、このユダに対する新説が今後信者の中でどんなふうに展開していくのか、無責任な野次馬感情丸出しではあるのだが興味津々の思いで眺めているのである。



                     2006.04.07    佐々木利夫



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