ユダの裏切り   


 特にキリスト教を信じているわけでもないのだけれど、これだけ多くの人々が信仰している宗教であり、聖書だって一つの物語として読んでみれば、その壮大なスケールは、信仰していない者にとっても、素晴らしいものがある。
 だからここに書こうとしていることも、信じている人や研究している人から見れば、とんでもない発想ということになるかも知れないし、または既に論破されてしまっていて、なんの価値もない意見ということも当然にありうるが、それはそれで良しとしよう。

 大体、キリスト教に対する私の認識自体が、既にエッセイで発表した「キリストは日本で死んだ」程度の極めて世俗的なものであり、かなりいい加減である。

 ところで小樽から余市の町へ入る少し手前の塩谷という場所に、「ゴロダの丘」という小高い丘がある。そこは今、伊藤整文学碑の建つ小さな公園になっているのであるが、かつて先輩がその場所を「ゴルゴタの丘」と間違って覚えていて、「どうしてこの名がついたのだろう」と長い間悩んでいたという話しを聞いたことがある。

 それは結局単に石ころの多い道という意味の「ゴロダ」の勘違いだったという笑い話に落着くのだが、そのことで逆に「ゴルゴタ」という地名に興味を持ってしまったという、なんともお粗末なキリスト教の知識不足も、私の興味の背景には存在している。

 話しを本題に戻そう。裏切り者のユダというイメージは、ユダという人物についてなんにも知らない時から、どこからか既成の事実として気持ちの中に刷り込まれていたような感じがする。そして、具体的なユダについての話を知ったのは聖書からではなく、実は太宰治の小説「駆込み訴え」が最初ではないかと思う。

 ユダが裏切り者であることについては、そんなに深く考える必要もなかったし、そのことは当たり前の事実として私の認識の中にあったから、この小説を読んでも特にその事実に疑問を感じることもなかった。

 ただ、ユダの裏切りとは別に、イエスが12人の使徒に向かって、「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」(マタイによる福音書、26章21節)と言ったという聖書の記述を知ったときに、どこかに違和感を覚えた記憶があって、それがこのテーマの小さな芽になっているのではないかと思い始めている。

 イエスが裏切りを知っていたということは、彼自身の言葉から証明できる。そしてこの場合の裏切りとは敵に対する密告であり、その密告によって敵がイエスを捉えにくるという状況を指すことは明らかである。

 さて、そうだとすると、イエスの取るべき道は一般的には二つしかない。つまり、「逃げる」か「立ち向かう」かである。ただ、そのいずれの行動をとる場合においても、密告するであろう者たちに向かって、密告するであろうことを告知するのは不自然である。
 にもかかわらずイエスは誰との名指しはしなかったけれど、12人に向かってこの内の一人が密告するであろうことを預言したのである。

 これは非常に奇妙なことである。裏切りというものの定義をどう理解するかは明確にはできないけれど、少なくとも自分の利益に反する行為を信頼している味方が不意打ち的に行うことだと考えてもいいであろう。にもかかわらずイエスは、裏切りの起きることを知りつつ、それに対する回避策を一切とらないのである。

 つまり、誰かがイエスの所在を密告し、それによって敵がイエスを捉えに来ること、そしてそれが自分の死につながることを事前に分かっていたにもかかわらず、彼はなんらの対抗策もとらないのである。

 これはとても奇妙な行動である。しかしひとつだけ合理的に説明できる理屈がある。それは、イエスは捉えられることを望んでいたという考えである。捉えられることを望んでいたということは、自らの死を覚悟していたと言うことである。イエスは捉えられて処刑されることを知りながら、敢えてその道を選んだということである。

 このことは、例えば敵がユダの密告に基づいて彼を捉えに来たときに、使徒の一人シモン・ペテロが剣を持ってイエスを守ろうとするが、イエスはこれを押し止めたことからも想像できる。
 イエスはこう言う。「剣をさやに納めよ、父の与えた盃は飲むべきだ」(ヨハネによる福音書18章11節)。イエスのこの言葉はもう一つの重大な意味を示唆している。敵がイエスを捉えることは「父の与えた盃」なのである。父とは神である。つまり、イエスの逮捕は神の与えた盃、つまり、神の作った計画、シナリオだということである。

 さてこうしたイエスの逮捕が、あらかじめ計画されていたシナリオに沿ったものであるというように理解できるとするならば、次はこのシナリオの意図がどこにあるのかを探る必要がある。そうするとき、実はこのシナリオのイエスの逮捕と死は、キリスト教にとっての重大な必然ではなかったのかという疑問に突き当たる。

 キリスト教をほとんど知らない素人が、こんなことを言っても説得力がないことは十分承知しているけれど、キリスト教がこれだけ大きくなり、人々に深く信仰されるようになった背景には、イエスの処刑と復活の寄与するところが大きかったのではないだろうか。イエスがゴルゴタの丘で処刑されることは、まだ十分には普及していなかったキリスト教が、多くの人々に浸透して行くためのどうしても必要な儀式ではなかったのだろうかということである。

 しかもそれは単に、イエスが密かに捉えられ、密かに処刑されるだけでは不足である。まず、捉えられるきっかけが「信頼される者からの裏切り」でなければならない。なぜなら信頼こそが信仰の基本であり、この信頼の破壊の中から復活すること、そしてその事実を多くの人々に知らしめることこそが、イエスが神の子ではなく人間として死ぬことの必然であるからである。そうであるならば、裏切り者は当然に最も信頼できる者たちの中から出さなければならない。

 イエスから「この中から一人の裏切り者が出る」と言われたときの12人のうろたえようはどうだろうか。彼等はこぞって「主よ、まさかそれは私のことでは…」と言いつのり、だれもが内心にそうした裏切りの気持ちのあることを否定できないでいるのである。

 イエスは更に「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が私を裏切る」と述べ、「これは私の体である」と言い添えて、持っているパンの小片を使徒たちに与える。これはもう命令である。使徒たちはイエスから裏切り者となるよう直接命ぜられたのである。いや、イエスからではない。大きなシナリオの出演者の一人として神からその役割を命ぜられたのである。
 ユダはその命令を忠実に実行した。ユダもまたイエスを心から敬愛し、不動の信頼を抱いていた忠実な使徒の一人だったから…。

 イエスは十字架を背負い、ゴルゴタの丘へ這い登り、やがてクライマックスの時が来る。十字架にかけられたイエスは叫ぶ。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」(マタイによる福音書27章46節、マルコ福音書15章34節)。

 完璧である。イエスはこの言葉を発することで、神の子ではなく人間として死ぬことができたのである。これからのキリスト教の普及にとって、人々にこれから永く語り続けられるであろうこの言葉こそ、神が意図した完璧な演出の決め台詞だったのである。イエスは人の子として死ななければならなかった。そしてキリスト教はその意図したとおりに、大きく、とてつもなく大きく完成していくのである。

 やがてユダはイエスを売った賞金を投げ捨て、首を吊る。裏切りを悔いたからではない。自分の役割が終わったからである。

 少し熱っぽく語り過ぎたかも知れないけれど、このように考えていくと、ユダは決して裏切り者だったとは思えない。むしろ裏切り者となることを命ぜられ、世の誤解の中に生きることを自ら選んだ哀しいしもべ、それほどまでにイエスを信頼していた不動の信徒だったのだと理解することのほうが、より妥当するのではあるまいか。

 12月である。街にはジングルベルが鳴り響き、クリスマス商戦が活発である。あらゆる行事に宗教感のなくなった日本だから、クリスマスが家族でケーキを食べ、男と女が改めて恋人同士であることを確認するためのお祭りだと思う人が多数を占めていたところで、特に異を唱えるつもりはない。

 それでも、この小さなひとりの事務所の中で、ユダという、そんな12使徒の一人がいたんだということをふと考えてしまうのは、やっぱりクリスマスが近づいたことの表れなのかも知れない。

             2003.12.1     佐々木利夫

              2006.4.7「裏切り者でなかったユダ」も読んでください。