食品の風評被害がすぐに広がったり、そうしたことを生産者が極端に恐れるような事件が最近多くなってきているような気がする。
 雪印乳業の賞味期限切れ牛乳事件、狂牛病と牛肉、O157(オーイチゴーナナ)食中毒とカイワレ大根、ノロウイルスと養殖牡蠣、消費期限切れの原材料を使ったとされる不二家の菓子、鳥インフルエンザと鶏卵鶏肉などなど。

 なにかあると噂や因果関係が確かめられる前にスーパーはもとより小売店の店頭からも、そうした商品の姿が消える。そうなっては大変だと、例えばそうした食品にかかわる産業が地元に大きな影響を与えている場合などは市長や知事までが出てきて、自ら食べる姿を見せて安全をPRするなどそうした風評の打ち消しに躍起である。時にそれが国対国の問題になると大臣までが出てくることにもなる。

 ところがそうした風評による該当食品に対する敬遠傾向は企業や行政や、時には国が安全を宣言したところで止まるところを知らないようである。

 どうしてそうなるのか。答えははっきりしている。その食品が店頭から消えても消費者は困らないからである。マリー・アントワネットが言ったとされる、あの有名な一言「パンがなければお菓子を食べればいいのに」とまったく同じだからである。(因みにこのマリー・アントワネットの言葉は悪意ある作り話だと言われている。別稿、平成15年『辺境』参照)。

 つまりそれだけ代替食品がほかにもたくさん存在しているということである。その食品が我々の生活に必要なものであり、本当に危険性がなく、しかもその食品しかないのだとしたら、我々はもう少しその食品に意識を向けることになるだろう。まあ、そんなに無防備に食べるということではないのかもしれないけれど、とりあえず国なり研究機関などの安全証明があるとするならば、少なくとも風評には流されず確かめるという態度をとることだろう。

 それにも関わらずその食品を口にしないということ、風評を信じないまでもとりあえず食べるのを避けておこうと考えるのは代替食品に容易に切り替えられるからである。
 まさに「牛肉がだめなら豚肉があるさ」であり、「肉がためなら魚があるじゃない」、「レタスがだめならキャベツにしよう」だと思うのである。

 そのことはとりもなおさず飽食のつけである。あふれるほどの食品、あふれるほど豊かな食品に囲まれて、しかもこれでもかこれでもかと新しい食品、贅沢な食品、癒しだ、地産だ、健康だと能書きのついた食品が、消費者のニーズに応えるという名目のもと続々と現れてくる。
 だから人は特定の食品がなくなってもなんにも困らないのである。「不二家がなければ○○があるじゃない」なのである。

 そしてもう一つ。風評に影響されるとは「自分で考えることをしない」ことであり、「流される」ことである。ひもじさを知らなくなった人間は、いつの間にか依存と言う泥濘のなかにすっぽりと漬かり、そうすることが当たり前だと感じるようになってきている。

 それにしても不二家の菓子事件の報道以来、最近の新聞には企業による欠陥食品の回収広告がやけに多くなってきているような気がする。
 しかもとても読む気の起きないよう小さな活字で記載されているのである。新聞そのものが読みやすいように印刷活字を拡大しようとするような風潮にある中で、こうした広告だけは本当に小さな活字を使っているのである。
 事実関係を正確に伝えるために長文になったからだとでも言うのだろうか。メーカー各社、各社が毎日毎日入れ替わり立ち替わりにこうした広告を掲載しているが、そのいずれもが同じような小さな活字で共通している。それはあたかも掲載したとの責任回避の事実を残したいだけで、実際は読ませたくないために意図的にそうしているのではないかと、へんな下種のかんぐりをしてしまいたいほどになっているである。

 「風評被害」とはとても分かり易い言葉である。この言葉の中には「被害を受けた食品そのものやその食品に関係する企業には何の責任もない」、「単なる噂による理不尽な被害である」と言うメッセージが無意識に込められている。
 「火のないところに煙は立たぬ」などとしたり顔をするつもりはないが、あまりにもこの言葉が一人歩きし始めると、なんでもかんでも自分だけを責任のない被害者の立場に置こうとする身勝手な意識が見え隠れしているような気がしてならないのである。



                          2007.2.02    佐々木利夫


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風評被害