夜中にトイレに起きることなど滅多にないのだが、ふと目が覚めた。夜光時計のデジタル表示が午前3時を少し回っていることを示している。昔の時刻表示ならさしずめ「草木も眠る丑三つ時」であり、妖怪や魑魅魍魎が跋扈する時間帯だなと、余計な考えがチラリと頭の隅をかすめる。

 小用の欲求で目が覚めたのだからそのままトイレへ向かえばいいのだが、ふと枕元に寝がけにメモしたエッセイの書きかけがあることに気づく。そしてこれもまた余計なことなのだが、ついでにその紙片を自分の部屋の机まで運ぼうと思った。
 トイレと反対方向にある私の机にそのメモを置こうと思ったのは、変な行動ではないにしても必然的な動きではない。今は冬の入り口である。ネポケマナコのままトイレへ行きそのままぬくもりの残る布団へ潜り込むことの方がずっと理に叶っている。

 とは言っても机へと向かった事実は否定のしようがない。メモを置いたついでにふとベランダ越しに夜空に目を向けた。私の入居しているマンションは札幌の中心からはけっこう離れているものの、JRの駅が目の前にあることもあって少しずつマンションが増えてきて、建物の廊下や階段の明かりなどがけっこう夜の闇に映えている。おまけに街灯も一晩中点いているから、人工衛星から夜でも日本の地形そのものが明るく見えるという現実に札幌の町も深く関わっていることがすぐに実感できる。

 そんな夜景の中で、夜空の一点のきらめきが気になった。なんだかやけに明るい点が一つだけベランダ越しに瞬いているのである。一瞬飛行機かヘリコプターだと思ったのだが、この時間帯からして普通はあんまり飛んでいることはないだろうと気づく。しかもその光の点はどうも動いていないようなのである。

 気にはなるけれど、まずはこんな夜中に目が覚めた原因とその対処のほうが急務である。小さいマンションながらトイレ、寝室前、そして我が書斎もどきの部屋、そしてベランダと続く構造である。そのままふとんに潜り込んでも良かったのだが、どうにも気になってもう一度確かめることにした。さっきから数分の経過時間があるにもかかわらずやっぱり光は移動している気配がない。さすればこれは星ではないだろうか。

 札幌の夜空も一晩中続く人々の生活のせいですっかり明るくなっていて、満天の星などにお目にかかることはまるでなくなってきている。今のベランダ越しの夜空にも微かないくつかの星がかろうじて見える程度である。にもかかわらずこの気になる光点は圧倒的な輝きである。

 話が少し変わるけれど、我が家のベランダは概ね南東方向に向いている。冬至になると遅い日の出が真正面から見えるようになるのだが(別稿「冬至の見える窓辺と惑星直列」参照)、まだ冬至には少し早い今の時期は正面より少々東寄りに6時半少し前頃に昇り始める。

 現在時刻は午前3時半、真夏ならばそろそろ東の空が白み始める頃だが、11月10日ではまだまだ真夜中である。そのちょうど日の出の方向に高度は30度くらいだろうか、どうにも星らしくないほどの輝きが一つだけこれ見よがしに瞬いているのである。

 常識的には明けの明星かも知れないが、これほどの輝きはもしかしたら彗星かはたまた超新星の誕生にぶつかった可能性だってないではない。朝早く起きる習慣はないから明けの明星を意識して見た記憶はないが、事務所からの帰り道の薄暮に時折見かける宵の明星だってこんなに華やかな輝きではなかったように記憶している。

 彗星なら太陽光のせいで尾が見えるはずだともうすっかり目の前の星に気持ちが移ってしまい、寝起きのうとうと気分などどこかへすっ飛んでしまっている。だが肉眼では尾らしき気配はないし、こんなに明るい星が仮に彗星なら新聞・テレビでとっくに話題になっているはずだと思うのだがそんなニュースの記憶はない。

 残るは超新星の爆発がある。例えば諸葛孔明が見たのがそうだとか、エジプトの伝説の中にある輝く星がそうだなどの話、更にはケプラーが聖書に出てくるベツレヘムの星を超新星ではないかと考えたことなど、超新星にまつわる話は伝説神話にまで遡るといくつか読んだ記憶がある。
 だがそんな数千年に一回あるかないかの奇跡のような現象に、夜中にトイレに行きたくなってのそのそ起き出したパジャマ姿の老税理士が偶々遭遇することなどまずはあり得ないだろう。

 それはそうなんだが、その確率がどんなにゼロに近かろうとも、そして無限小とゼロとは数学や統計ではイコールだと定義するのかもしれないけれど、感覚的には決して同値ではない。眠気のすっ飛んでしまった男はやおら双眼鏡を探し始める。天体望遠鏡が欲しいと真剣に思ったことがあるけれど、昔の映画「裏窓」(いわゆる覗きであるが)みたいな気がして実現していないので手元にあるのは双眼鏡だけである。

 若い頃の東京研修の時に、200人以上もが一同に会する講堂で講師の板書を書き写すために買ったプリズム式の軽量の双眼鏡である。対物レンズの口径25ミリ、倍率9の視野も明るさも抜群の高価な買い物であった。確か書棚の隅のほうに埃にまみれているはずである。見つかった。だが覗いてみても星はさっぱり大きくなってくれないし、尻尾も見えてこない。ヘリや飛行機でないことは確認できるものの、視野の中でゆらゆら揺れる光点がオシロスコープの軌跡のようにうごめくばかりである。

 部屋の中からの窓越しの観察とは言え、ストーブの消えている部屋からの眺めである。30分も続けていると少し寒くなってきた。奇跡とも言うべき現象が仮に目の前で起きているのだとしても世紀の大発見の一番乗りになる栄誉は他人に譲ることとし、正確な情報は朝のテレビか間もなく届くであろう朝刊に委ねることにしよう。

 そうと決まれば外はまだ暗闇、もうひと寝入りすることにしよう。世紀の大発見にうつつを抜かすよりは睡眠が第一であり、常識的にはこの現象は奇跡ではなく「明けの明星」であろうと自らを納得させる。
 それにしてもその見事な明るさに多少の後ろ髪を引かれつつも、日の出の少し前にもう一度眺めてみるのも一興だと思いながら布団にもぐりこむ。

 ナムサン、目が覚めたのは6時半に近い。既に空は明るく、太陽は快晴の青空をバックに間もなく地平線を離れようとしている。昼間ならあんなにも眩しいのに、今朝の太陽は真っ赤な輪郭を札幌のビル街の遠景に惜しげもなくさらしている。その勇姿に思わず見とれつつ、動かす視線に午前三時の輝きは跡形もない。
 もし超新星なら第一面に、彗星だとしてもどこかの囲み記事にきっと載っているはずだとテレビのスイッチを入れ配達されたばかりの新聞を大急ぎでめくってみる。やっぱりあれは単なる明けの明星だったのだろう、それらしき情報は皆無である。

 午前3時の快晴と小用欲求との組み合わせは、そんなに定期的に巡ってくることはないだろう。小用代わりに目覚まし時計をセットすることも可能ではあるが、週間天気予報は明日からの一週間は曇り、雨、雪を告げており星空は当分お預けのようである。

 もしかしたらあの輝きはキリストの誕生を予言したベツレヘムの星と同じように何かの奇跡の先触れかも知れないと、何だが信じられないような思いの残る今朝の出来事だった。朝日は既に眩しくて見らいられないほどになっている。
 それにしてもベツレヘムの星は信じた者への福音だったかも知れないが、信じないままに布団へともぐりこんでしまった者に、それらしき奇跡など決して起こることはないだろう。

 だから奇跡から見放された初老の男は、この冬一番の寒気が北海道を襲い札幌も氷点下の気温を記録したという今朝のニュースと、冬は空気が澄んで星空がよく見えるとの情報を組み合わせて、やっぱりあれは金星(つまり明けの明星)だったのだと思うことにしたのである。



                          2007.11.11    佐々木利夫


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午前3時の輝き