電車で化粧する女の話は以前ここに書いたことがあるけれど(別稿「化粧する女たち」参照)、今やそんなことは当たり前の現象になってきている。それはとも角として、先日用事があってJRに乗ろうとして驚いた。私の乗る駅はそんなに乗降客が多いわけではないが、8時を少し過ぎた頃で待合室にはまだ通勤や通学の人たちが忙しげに交錯していてそれなり混雑している風景がそこにあった。

 ところでその待合室の入り口のドア付近でミニスカートの女子高生と思しき一人が、スカートをまくり上げながらしきりにストッキング(だろう)を直しているのにぶっかった。場所は駅の待合室である。すぐ近くにトイレもあるし、駅舎から少し離れれば戸外の建物の陰や木陰などがないわけではない。
 にもかかわらずまるでそんな場所を利用する気配さえ見せず、あんまりスラリとしているわけでもない太ももをあらわにしてずり下がっているらしいストッキングを引き上げているのである。

 こんな風に書くと、そうした女子高生の一挙手一投足を私がまじまじと見つめていたような感じになってしまうが、決してそうではない。とは言っても多少の驚きと若干の興味(?)もあって見ないフリをしつつ何度かチラリと視線を走らせたことは白状しなければなるまい。

 パンツまで見えるほどのすさまじい姿勢ではないのだが、そうした風景を見ながら改めて今時(?)の女性の羞恥心の欠如に改めて思い至ったのであった。

 私の小学生の頃(今だってそれを引きずっているのかも知れないが)は、女性の足の価値はずっとずっと高かった。普段でも着物姿の女性が多かったせいからなのかも知れないけれど、裾が少しはだけて赤い腰巻から白い脛がチラリと覗くだけで何か見てはいけないものを目にしたような気がしたもんだ。
 そうした意識は私の中で「羞恥心、特に女性の羞恥心は美徳」みたいな感情にまで高められてしまっているのかも知れない。

 ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」の中で日本の文化を「恥の文化」と位置づけ、「罪の文化」としての欧米のそれと対比した。
 たかだかJR待合室の人前でストッキングを直している女子高生の姿に日本人全体の文化論を重ねてしまうのは大げさだと思うけれど、今の世の中眺めていると日本人の中から「恥ずかしさ」につながる感情がどんどん小さくなっているのではとの思いがしてならない。

 それは日常のゴミ出しから始まって携帯電話の利用やバスや地下鉄の乗降などまで、いわゆる「マナー」と呼ばれている分野の多くから日本人が本来持っていたはずの恥ずかしさに結びつくような感情が、少なくとも私の経験する時間という小さい単位の中からでも目に見えるように消えていっているような気がしてならないのである。

 この僅か数ヶ月を見るだけでも、日本中で食品偽装や耐震偽装、建築資材の性能偽装などなど隠蔽なども含めると企業も官庁も隠したり誤魔化したりがまさに燎原の火のごとくに蔓延していっていることが分かる。
 その度に社長などが記者会見をして、「コンプライアンス(法令順守と訳されているらしい)に努めます」などと記者会見場でのたもうてマスコミのカメラの放列に頭を下げる。時に責任者たる社長が辞任してそのまま会長の座に納まるなどよく分からない対応も見受けられる。

 そうした頭下げや辞任も一つの解決方法ではあるとは思うのだが、「ルールを守る」と言うことをコンプライアンスの問題にしてしまうこと自体、逆に病んでいる現代を象徴しているのではないかとの思いもしている。
 トップを含めて「知っていながら知らないフリを通す」、時に「この程度の偽装には客は気がつかないだろうと軽く見る」などの背景には、最も基本となる恥じらいの心の欠如があるのではないだろうか。

 日本にはコンプライアンス以前にそうした恥の文化ともいうべきものが、共感として社会に浸透していて、それが生活の基盤になっていたのではなかったのか。
 「バレなければ何をやってもいい」、「バレないようにいかに画策できるか」、「たとえバレても企業のトップには及ばないように社員の責任に止める」などの思いが企業や個人にいつの間にかあまりにも日常的に蔓延してきている。

 そうした背景の根っこにはきっと、長く日本人に伝わってきている「恥じらいを基礎とした隣人関係」からの離脱がある。
 長い男尊女卑の歴史の中で、恥じらいのイメージもまた女性に不利、男性有利な形へと変貌してきたことは否めないだろうけれど、本来日本人の恥じらいとは「他人(ひと)を思いやる心」を基礎として発展してきたものなのではなかっただろうか。自分を眺める他人からの視線を意識し、その眺める相手に不快感を与えないことや余計な気を使わせないことをあらかじめ計算の中に入れる、それが恥じらいの原点にあったのではなかっただろうか。

 だとすれば、「恥じらいの喪失」とは、そうした「思いやりの心」そのものを日本人が失いつつあることの証左なのかも知れない。



                          2007.11.8    佐々木利夫


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恥じらいの構図