介護事業大手のコムスンが介護報酬を不正に請求していたことなどから介護事業からの撤退を余儀なくされている。ただそのコムスンは「24時間いつでも、どこでも」を売りにして発展してきたこともあって、例えば夜中の巡回看護や過疎地など交通不便な地域での訪問介護に従事するスタッフ不足などから譲り受ける側の事業者がうまく見つからないなどの問題が起きてきている。

 国から支払われる介護報酬の安さから必要な人材が集まらないこと、介護サービスの内容がこと細かく法定(または通達化)されていて介護を受ける者や介護に携わる家族などの要望に十分応えてやれないことなどが原因だとする問題の所在は良く分かる。

 そのことは良く分かるのだが、ここにも私は介護の回りにいる人々のあまりにも強い依存体質を感じてしまうのである。恐らく私の理解する介護の現実は、どんなに想像したところで私がそうした場に直面していないという事実の下では実態には程遠いものだろう。
 何をもって最低限度の介護と呼ぶかは難しいところだが、「一人ひとりの満足のいく介護」でなければならないのか、それとも不十分であっても少しでも介護する者の負担の軽減を図ることやこれまでまるで介護から見放されたきたようないわゆる介護難民とでも言うべき人たちの手助けになるような方向に向かうべきなのかの仕切りが人々の間に定着していないような気がしてならないのである。

 私は介護保険の目的が「どんな人も100%満足する介護」にあるのではないと思っているのである。もちろんそうした介護の方向が間違いだというのではない。介護する側もされる側も完全に満足できる制度が理想であろうし、その実現が理論的に不可能だとは思わない。

 ただそうするためには膨大なコストが必要であり、そのコストは結局介護を受ける者の自己負担にしろ、介護保険料として一定の者から徴収するにしろ、はたまた税金として国民から集めるにしろ結局特定の個人もしくは多数の国民の負担に委ねざるを得ないということになるからである。

 そして人の欲望には際限がない。「もっと」の要求は要求する個人個人のわがままとはどうしたって抵触する場面が゙出てくることだろう。この要求を満足させるには際限のない「人、金、物」が必要になるだろうし、だかこそ「100%満足のいく介護」など、現実には不可能だとも思っているのである(別稿「老いの偏り」参照)。

 増税の話になると税金の無駄遣いなどが必ず話題になるし、無駄遣いがなくなることによって効率的な税金の使い方が実現するであろうことに異存はない。だが国民も政治家も、抽象的に無駄遣いをなくすべきだとは主張するけれども具体的にどこからいくらぐらいひねり出すかについてはなかなかどうして道すじが見えてこない。

 大体が、「無駄」と一口に言っても「誰が見ても分かるような目に見える無駄」というのは現実には見えてこないことが多い。何が無駄かは、これに利害が絡んでくるととたんに判断が難しくなる。自衛隊は違憲だから全廃するか、国会議員は多過ぎないか、参議院はどうしても必要か、介護は家族に任せて国が介入すべきでないのではないか、過疎地の村と村をつなぐ道路の舗装は必要なのかなどなど、言い出したらきりがないほどにこの無駄の判断は混乱してくるだろう。

 税金の全部を介護に使うことも理論的には可能だけれど、税金の使途を介護に限ってしまうのはそれを利用する介護事業者や介護を受ける側はいいだろうけれど国の施策は外交、防衛、教育、インフラなど多岐にわたるのだし、特定の部分だけに限定させてしまうのは間違いを超えて誤りと言っていいであろう。

 どうしたって世の中は「人、金、物」がないことには物事進んでいくものではない。もちろんボランティアやNPOなどのように奉仕を目的とする団体がないではない。だがそうした団体にしたところで、利潤の追求に向かうかどうかはともかくとして、「人、金、物」がなければ現実に身動きが取れないことも事実である。

 介護保険料を値上げしたり自己負担を引き上げることには反対意見が多い。人はどんなときも受けることには寛容であり、懐から出て行く金については批判的である。そしてつまるところは行政である政府に向かって「なんとかせい」の大合唱となる。

 だが国家といえども打ち出の小槌をもっているわけではない。基本的には収入の範囲内でしか支出のできないのが道理である。だからこそコムスンの例にも見られるように不正請求を監視したり、また介護として予定していないような過剰なサービスの制限や規制を設けたり監視したりする必要が出てくることになるのだろう。

 不正請求は論外としても、どこまでサービスを提供するかは介護としての哲学の問題ではある。だが他面限られた収入の範囲でどこまでのサービスが可能か、場合によってはここまでなら負担はここまで、ここを超えるのならこれくらいの予算が必要という問題でもある。

 それはまさしくバイキングである。ケーキ食べ放題から酒食つき宴会バイキングまで、自分で選ぶ食べ放題方式はいまやいたるところに広まっているが、その料金設定は来客者の年齢や階層などから予想される一定の確率によっているだろうことは当然に予想される。それは料金を決めてから原価の計算に入るのか、それとも原価と客の消費傾向から料金を決めるのかは経営力のない私には分からないけれど、いずれにしても収支相償うと経営者が判断した価格設定になるだろうことだけは分かる。

 バイキングは一見するところ「よりどりみどりのなんでもかんでも飲み放題、食べ放題」に見える。だがその選択肢は「相手が提供した範囲内」に限定されてるいることに案外と気づいていない。その会場に並べられている飲み物や料理に限って好きなように選択できるに過ぎないのである。ボルドーのワインや大吟醸の日本酒、キャビアや神戸牛のステーキなどはそもそもテーブルに並べられていないし、希望したところで提供されることなどないのである。

 介護保険のサービスもこれと同じである。限定されたサービスの中から自分に合うものを選択するしかないのである。しかもバイキング会場の張り紙に「食べられるだけお皿に入れてください」とあるように、介護の場合もメニューが法定され、通達化され、更にその選択をコントロールするケアマネージャなどによるフイルターを通さなければならないのである。

 それは「採算」もしくは「収支相償う」という基本的な要求のあらわれでもある。金がからむと物事はとたんに冷たくなる傾向は否めない。特に生活保護だの医療だの介護だのと、どちらかというと「弱者保護」に視点を置くようなシステムにおいてはなおさらに顕著となる。

 「命よりも金が大事なのか?」の問題提起はどんな場合でも正論に聞こえる。だがどんなシステムもこの採算を度外視しては成立しない。ボランティアにしたところが自らの提供する労力なり知識をせいぜいが無料にするか費用の一部全部を自腹を切るか、思い切って他者の分まで寄付するか以外には成立しない。
 つまりどんな場合でもコストはサービスと常に密接不離の関係にあるのであり、そのコストはせいぜい誰かが自腹を切ることで軽減していく以外に手だてはないのである。そしてそれは仮に無料の外観を見せているとしても決して原価がタダなのではない。

 にもかかわらず、介護を受ける者、介護に携わる者は1000円会費食べ放題の中にコストを考慮することなくひたすらにメニューの充実、そしてたっぷりのボリュームを要求する。その要求の原点は常に「必要」である。「このサービスが私、あるいはこの人にとってどうしても必要なのだ」とする理論である。

 その必要性に反論することはとても難しい。反論は時に非情ですらある。そしてその必要性はいつの間にか弱者保護への正当性へと結びついていくから、そうした要求への反論は非情な非常識、法律や通達などは型どおりに適用しようとする行政の情け知らずの紋切り型運用だとする批判へとつながりがちになる。

 私は「どんなものにもコストはある」と頑なに信じているからそう思うのかも知れないけれど、こうした要求はどうしても「ないものねだり」になっているのではないかと感じられて仕方がない。
 もちろん介護の現場にだって効率や無駄の排除などへの努力は欠かせないだろうし、そうした努力を介護を受ける者の我慢であるとか、介護する側の善意に依存したりする方向のみへと向かわせることも誤りだろう。

 本当に必要な介護を、本当に必要な人へ提供すること、そしてそれに見合うコストを適正に見積もってそのために必要な収入を確保することが介護保険にも求められているのである。
 介護保険というシステムがある(または作った)という事実のみに幻惑されて、そこにないものねだりを続けていく風潮が蔓延していくことは、逆に介護保険のシステムを崩壊させていくことにもなりかねない。

 依存体質は介護の現場だけに存在するものではない。公共事業にも教育現場にも科学振興にも、犯罪の取り締まりや災害対策にいたるまでどんどん広がってきている。蔓延する依存体質は、日本のあちこちに修復不可能なまでのシステム障害を起こそうとしている。



                          2007.9.15    佐々木利夫


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