つい先日(10.11)の朝のテレビで交わされたアナウンサーと気象予報士の会話である。「昨日のあなたの予報、ピタリ当たりましたね・・・」、「ありがとうございます・・・」。
 どうってことのない当たり前の会話だと思う。それはそうなんだけれど、普段から天気予報にはいささかのこだわりを持っているせいか、なんだかこの会話に引っかかってしまった。

 そのこだわりとは天気予報の外れの多さに関するものである。予報なのだから当たり外れのあることは当然である。だから外れたからと言ってそのことを非難しようとは思わない。そうは言っても外れが多いのではないかと気になっていることは事実である。友人の中には夫婦ともどもで「絶対に信じない」とまでのたもう者までいるくらいである。
 私はそうした外れの多さ自体はそんなに気になっていないつもりである。まあ、逆に言えばそれだけ天気予報に信頼を置いていないことの証左なのかも知れないのだが・・・。

 すでに天気予報については警報の多さに辟易していることなどをこのホームページへ書いたことがある(別稿「垂れ流しの天気予報」参照)。
 ところで私の抱いている天気予報へのこだわりと言うのは、そうした外れの多さにもかかわらず外れたことに対する反省が少しも見られないことにある。

 天気予報は常に明日の天気である。週間予報も三ヶ月予想などもあるけれど、理屈を言ってしまえば明日の予報の延長であろう。したがって毎日毎日新しい予報が繰り返されるのが予報の宿命である。だからこそ予報を聞いたすべての人にとってその予報の結果については検証が可能だということにもなる。

 そして予報はよく外れる。前にも言ったけれど予報なんだから外れたって構わないと思う。ただ、外れる予報を出しておきながら、しかもその予報した当人による検証が容易であるにもかかわらず、外れたことに対してその外れは過去の出来事であり新しい明日の予報とは無関係だとするような「知らんぷり」にどうにも我慢がならないのである。

 だからと言って天気予報の時間の中に「昨日の予報の検証タイム」を設けてその場で総括せよとまで望んでいるわけではない。
 ただにこやかに明日の天気をさも確信ありげに予報しておきながら、その結果についての反省らしき態度がまるで見られないことが、予報に対する不信を一層募らせてしまうのである。

 天気予報の時間は今や単なるニュース番組を超えて、一種のショー化していっている。生活のためのデータ提供から楽しむ番組へと移りつつある。そのせいなのか「余計なお世話」とでも言いたいような内容がどんどん増えていっているような気がしてならない。
 「今日は洗濯日和でしょう」と言われてから思い出したように洗濯を始める人なんているのだろうか。雨が降っていたって洗濯物が溜まっていたら洗濯機を回すだろうし、昨日洗濯が終わっていたならばどんなに天気が良くたって洗濯機を回すことなどないだろう。

 それに北海道にいるから特にそんな風に感じるのかも知れないが、節季にかかわる様々な解説がそれに追い討ちをかける。立冬、立夏、啓蟄などなど、日本人は一年を24に分けて季節の変化を楽しんできた。それは単に楽しみだっだけではなく、生活そのものに結びついた智恵でもあっただろう。
 だがそれは旧暦を中心とした江戸などでの現象であろう。「啓蟄」とは春になってきて地中の虫などがうごめき出す頃の意味である。そんなことをアナウンサーや気象予報士などがしたり顔で「春ですねぇ・・・」などとのたもうても、旧暦とは2ヶ月近くもずれがある上に北海道はまだ冬の真っ最中でうごめくだろう虫のいる地面ははるか雪の下に埋もれているのである。

 そうした言葉と実感のズレは大寒でも大暑など他の節季でも同じである。にもかかわらず「今日の話題」に堂々と取り上げて解説を始めるのは、やっぱり余計なお世話である。

 この他にも天気にまつわる民間伝承などもくどくどと説明が始まる。そうした伝承はその地方その地方独特のもののはずである。なんとか山に雲がかかったら雨だとか、海からの風向きが変わったら時化るなどなど、そうした言い伝えはその地方に住んでいてこその信頼できる情報のはずであり、時にそれらは民話や伝承にまで発展していっている。

 そんな話題をその地方から離れて全国ネットで話したり、まるで関係のない九州の話を北海道で説明されたりしてもそれこそ余計なお世話である。しかも、そうした話は話し手がそうした知識を示したがっているからなのか、それとも予報のデータが少ないための時間つぶしに使っているからなのか、時には「世界の各地の天気にまつわる伝承の数々・・・」といったものまで登場する有様である。

 天気予報の外れの問題は、一義的には予報の精度を上げることで解決していくことだろう。だがそうした一方で、外れることもまた避けられない現実だとも感じている。どんなにスーパーコンピュータを駆使したところで、予報には予報としての限界があるだろう。たとえ精度が上がったとしても、人々の要求には限度が無い。札幌が快晴だといわれたところで、例えば西区に住む私の家の前ににわか雨が振ったとしたら、その予報は少なくとも私にとっては外れたことになるだろうからである。

 「予報の外れ」の問題は今後数十年、数百年の先は分からないけれど、恐らく今後も続くことだろう。それはむしろ予報の宿命と言っていいかも知れない。
 だとすれば天気予報が単なるニュース番組を超えて一種のショー化している現実の下では、このままではいけないのではないだろうか。

 信頼あってこその楽しめる番組である。予報の外れが避けられないのならば、こうした天気予報番組に求められているのは「予報であることの謙虚さ」なのではないだろうか。予報であることをきちんと明示しつつ、外れることのあること、外れた結果などをさりげなく番組の中へ盛り込むような努力が必要になってきているのではないだろうか。
 「快晴」と予報したにもかかわらず「土砂降りになった」ことを頬かむりしたまま「明日は晴れるでしょう」などと繰り返したところで、「天気予報は当てにならない」と思い込む人たちを増やす結果になってしまうだけなのではないだろうか。

 そして更に、実はもう少し意地悪な見方もしているのである。気象予報士は国家資格であり、天気図を読む力もその結果を公表することも認められている。だが民放も含めて多数の天気予報番組は、構成や画面のデザインなどは異なっているけれど予報そのものの内容はどこも同じように感じられることに起因している。

 それは基礎となるデータや予報そのものが気象庁から出ているものに限られているのではないか、そして予報士の仕事とはそれを単に受け売りで発表しているだけではないのかと思ったのである。
 あの無反省でいけしゃあしゃあとした顔つきの背景には、もしかしたら「私は気象庁が発表したデータを単に伝えているだけ」との思いがあるのではないかと思ったのである。だから予報士は節季だとか天気に関する伝承や洗濯日和などの余計なお世話の解説だけに力をいれてしまうのではないかと思ったのである。

 つまり、予報士は予報しないのではないか。予報しないのだから外れてもそれは予報士の責任ではないと思い込んでいるのではないか。ちゃんと責任を負うべき国家機関が堂々と存在しているのだから、終わってしまった外れの予報に私が一喜一憂することなどない・・・、そんな風に思っているのではないかと邪推してしまったのである。

 ただ、そうだとすればこの文章の最初に書いたアナウンサーと予報士の会話自体が変である。気象予報士は予報なんぞしていなかったのだから、それを「当たった」と褒めることも「ありがとう」と応えることも共に筋違いだと思えるからである。

 もちろん予報士は企業や農業への予報データの提供もしているのだからテレビの天気予報番組に出演している者のみを切り取って予報士を評価するのは間違いだろう。それについては、「私は天気予報について言っているのであって、決して予報士そのものの評価をしているのではありません」と言い訳しつつ、それでもやっばりこんな思いは的外れの邪推であって、まさに余計なお世話だったでしょうかね。



                          2007.10.17    佐々木利夫


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天気予報と謙虚