犬がワンワン、猫がニャーニャーと鳴くのは当たり前のように思っているけれど、中学生の時に英語の授業でアメリカでは犬はバゥバゥ、猫はミューミュー鳴くんだと聞いて、鳴いてる犬猫は日本と外国で違うはずもないだろうに、聞く人や民族などによって違った聞こえ方になるのだと知った。

 言われてみると動物は飼われている人間の言葉を話しているわけではないのだから、単にそう聞こえるというだけであってそう鳴いていることとは違うのだろう。

 コケコッコー、モーモー、メェーメェー、カッコーなどなど、鳴き声を日本語で表記するとそうなるのかも知れないけれど、現実に聞いて見ると必ずしもこれとは違うことがはっきりと分かる。ただ、はっきりと分かりながらもそれではどんなふうに表現したり真似たりできるかと考えてしまうと、やっぱりコケコッコーだとかモーモーになってしまうというのもそれなり興味ある事実ではある。

 そして日本人はいつかそうした鳴き声のなかに日本語を聞き取るようになってくる。「ききなし」とは「聞き做し」と書くようだが、鳥の鳴き声を言葉で表したものである。
 この言葉は広辞苑の第二版には載っておらず第四版でチェックできたくらいだから(第三版は調査未了)、それほど人口に膾炙した使われ方をしていないのかも知れない。

 それでも例えば「このはずく」の鳴き声を「ブッポウソウ」と聞きとってそれに「仏法僧」をあてはめたのも「ききなし」の一種であろう(別稿「鳳来寺山のブッポウソウ」参照)。
 そのほかにもウグイスは「ホーホケキョ」(法・法華経と理解したのだろうか)と鳴くし、ホトトギスの「テッペンカケタカ」、ヒヨドリの「一筆啓上」、ヒヨドリの「ハクション」などもそれなりに有名である。

 もちろん有名だからと言ってそうした「ききなし」の全部を私が直接に聞いたというのではない。鳥の声を聞く機会がないと言うのではない。我が事務所の近くで数年前まで熱心に通っていた三角山にだって訪れるたびに様々な鳥が鳴き声を披露してくれている。
 ただ、そうした鳥の鳴き声を私がその鳥の種類を理解したうえで聞いているかと問われれば、実は鳴き声が耳に届いたとしてもその姿を見る機会は極めて少ないうえに、鳥の姿と鳴き声を結びつけるだけの知識も情報も私にはまるでないと言っていい。つまりは私には鳥の知識など皆無といってもいいほど乏しいということである。

 だからあんまり大それたことは言えないのだけれど、ウグイスやカッコウの声に山道を歩くのどかさや静けさ、そして森の匂いの中に身を置いていることのゆったりとした気持ちを味わうことくらいはできる。

 地方によって聞こえ方が違うようだが、鳥は様々な言葉で私たちに語りかけているようだ。ネットを調べてみると「ききなし」には色々と面白い表現があった。
 メジロは「長兵衛忠兵衛長忠兵衛(チョゥベエチュゥベエチョゥチュゥベエ)」、フクロウは「ぼろ着て奉公(ボロキテホウコウ)、センダイムシクイは「焼酎一杯ぐぃー(ショウチュウイッパイグィー)、ツバメは「虫食って土食ってしぶーい(ムシクッテツチクッテシブーイ)などなど鳥は多様な鳴き方をするようである。

 「ききなし」は鳥の声にまつわるものではあるが、考えてみると同じような聞こえ方は鳥だけに限らないのではないだろうか。今ではあんまり聞かれなくなったみたいだが、こんな童謡を覚えている。

    お山の中ゆく 汽車ぽっぽ
    ポッポッポッポ 黒いけむを出し
    シュッシュッシュッシュ 白い湯気噴いて
    機関車と機関車が 前引き後押し
    なんだ坂こんな坂 なんだ坂こんな坂
    トンネル鉄橋ポッポッポッポ  トンネル鉄橋シュッシュッシュッシュ
    トンネル鉄橋 トンネル鉄橋 トンネル トンネル トントントン
                                    と登り行く


                 童謡「汽車ぽっぽ」(作詞作曲 本居長世)

 擬音の羅列だと言われればそれまでかも知れないけれど、少なくとも歌詞の中の「・・・なんだ坂こんな坂、なんだ坂こんな坂・・・」は坂道をまるであえぐように登っていく蒸気機関車の吐き出す蒸気音がそんな風に聞こえるのだと作者が教えてくれているような気がする。

 そしてそんな声を今でも聞くことのできる耳を持った子どもがいるのだと、数年前に知った子どもの詩の中にそのことを感じたのを思い出した。

    電車とおはなし

    「せきぐち はなこです」
     (どうしたの?)
    いまね でんしゃがね
    「だれっかな だれっかな?」って
    きいていたんだもの

 
      (群馬県 4歳女児、 読売新聞「こどもの詩」 平成13.11.3)

 この女の子には走る電車のレールの継ぎ目を渡るその音が、あなたは「だれっかな、だれっかな」と呼びかけているように聞こえたのである。

 こうした機関車や電車の音を「ききなし」とは言わないのかも知れないけれ。だが鳥の声に言葉を聞いた日本人はここかしこに確かにいたのだし、そうした日本人の心の中には、もう私などすっかり忘れてしまっているしみじみとした感性がきっと残されていたのだろう。
 「ききなし」も電車の語りかけも、耳で聞くのではなく聞きたいと願う心に届くのかも知れない。そしてその声は豊かで真っ白な心がないと聞こえてこないものなのかも知れない。そうしたどうでもいいような、生きていく手段としてはなんにも必要のないような、そんな無駄で余計で邪魔な心を私はいつの間にか錯綜し効率化し合理的だと信ずる社会や生活と名づけた様々の中に消し去ってしまっている。



                          2007.8.10    佐々木利夫


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