魚や昆虫など、多くの動物が卵を生むことで自分の生存を全うする。哺乳類にまでその範囲を拡大してもせいぜいが子育て(つまり自分で餌を獲ることができるようになる)までで親の使命は終わってしまう。
 にもかかわらず人間の平均寿命は、現実には飢餓や戦争などで国によって大きく変化しているけれど、生物として考えるなら多少の例外を除き80歳〜100歳くらいだろうからこうした使命を目的とした期間を大きく超えていることになる。

 なぜ種としての人がそんな年齢になるまで生き延びる必然があるのか、つまり親はどうして孫の存在を見届けるまでの寿命を持っているのかについては、一応の結論を「智恵を孫に伝えるに十分な余裕の必要」のためではないだろうかとそんな意見を根拠にしたエッセイを以前ここに書いた(別稿参照、平成16年『昔話のおじいさんおばあさん』)。

 ところで最近、少なくとも孫の顔を見るまで生き延びることは種としての大事な要件なのではないかと思うようになってきた。
 「子を生むこと」、これは細胞分裂などで増えていく単細胞生物でない限り生物としての最低限の要件である。そして生物としてのその子が自分で生活できるまで育てることで、私は種としての親の責務は終わるのではないかと考えていたのであった。

 だがしかし、生んだ子を大人になるまで育て上げるだけでは種の保存として完璧とは言えないのではないかと思うようになってきたのである。
 F1(エフワン)という畑作物の種子がある。F1とは自動車レースの名称ではない。Filial1(フィリアルワン)の略で雑種第一代とかF1ハイブリットと呼ばれているバイオテクノロジーを駆使した交配種のことである。
 異なる遺伝子を組み合わせた次世代には雑種強勢という性質があって、一代目には元気良く勢いのある子どもばかりになることが多いという性質がある。つまり食品などで言えば寒さに強く、害虫にも強く、甘みがあって大きく収穫量も多いなどの性質が表われることが多いと言うことであり、そのことからこのF1は近年の種苗の販売にかかる企業の重要な戦略物資になっている。

 ところがこのF1品種は一代限りでおしまいなのである。つまりこれほどにも優秀な性質を持った種子でありながら、その実りからは次世代の種子が採れず、たとえ採ることができてもその種子から作物の実ることはない(子孫を残せない)のである。
 一代限りということは子が子を生まない、つまりは孫が生まれないと言うことである。種から芽が出て花が咲き実がなり、その種から新しい芽が出て次の花が咲く、これを繰り返すのが生物の基本である。植物に限らず動物でもそうした繰り返しを当然のこととして進化してきた。F1を企業の戦略物資であると言ったのはこの繰り返しが途切れると言う意味である。こんなにも素晴らしい性質を持つ種子でありながら次世代が続かない、だから農家はこうした素晴らしい作物の継続的な収穫を望むならば、毎年毎年新たにこうした品質を持っている種子を買い続けなければならなということになるのである。

 人は弱い。あまりにもひ弱である。生まれたばかりの裸の人間は独力では生きる術を持たない。出生が時に母体の生存を危うくするくらいまでに妊娠期間を長期化させても、それでも人はまだ生きることすら自力ではできない無防備のままで生まれてくる。
 そんなひ弱な子孫を数多の生物の頂点に据えるまでに育て上げるためには、親は適応のための様々な智恵を伝えていく必要があった。生物としての成熟をどの程度の年齢とするかは難しい問題ではあるけれど、一つの区切りとして子孫を残すことにその基準を求めることもできるだろう。

 だがF1品種の例もある。単に子どもを生んで大人に育て上げるだけでは種としての継続的な維持が確立されるわけではない。人類は魚や昆虫のように無数とも言えるほどの卵をばらまく方法での種を残す道を選ばなかった。私が幼かった頃に同級生に10女という続柄の女の子がいたことでも分かるけれど、生物としての女性が生涯に生む子どもの数は数人から十数人が限度であろう。
 少ない子どもを時間をかけてゆっくりと育てる、それこそが種の保存の方法として最適なのだと人類は確信しそのように自身を進化させてきた。

 ならば最後の仕上げは子孫の継続をこの目で確かめることである。F1でも述べたように、わが子を生むだけでは、その子が更に子を生むことの保証にはならない。
 ここで孫が登場する。孫が生まれて始めてわが子が種として成熟したことを確認できるのである。孫そのものが目的なのではなく、孫を生むことのできるわが子の存在をその目で確認することこそが種としての親の任務になったのである。

 こうした意見を不妊であるとか子どもを生まない生き方を選択するなどの個々人の意志と結びつけてはいけない。ここで言いたかったのはあくまでも種を残すという生物としての必然、人類という種の問題に対する意見だからである。

 だがしかしその孫も既に4人を見届け、それぞれに小学生から高校生にもなった。こんな種の保存みたいな屁理屈まがいを言っちまったら孫の存在を十分に確認できて、しかも可能性が皆無ではないかも知れないがわが子の年齢からしてこれ以上の孫の増加など望めないであろうこの身を振り返ってみると、我がF1理論による必要な年齢を既に超えてしまっているのではないかと、なんだか落ち着きが悪くなってくる。
 はてさて、ひ孫誕生までの新理論でも遅まきながら考えることにしましょうかね・・・。。



                               2007.7.12    佐々木利夫


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孫の顔を見るまでは・・・