2007.4.11    佐々木利夫


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野麦峠に立つ
 野麦峠とは長野県信州岡谷から岐阜県飛騨高山へと抜ける飛騨山脈にある標高1672mの峠である。私がこの峠を知ったのは東京で一年余の研修を受けながら論文の作成にかかわっていたときであった。論文のテーマは税法における給与所得をめぐるものであったことから、必然的に労働法の分野へも触手を伸ばしていったことが発端になった(論文については別稿「給与所得の性格と課税上の問題点」で発表している。興味ある方は参照されたい)。

 労働法における賃金と税法上の給与所得の関係を調べていくうちに、日本の近代化と戦費調達の手段でもあった所得課税との関係でどうしても避けて通れない養蚕振興、つまり生糸・絹織物の輸出にぶつかり、そのことはやがて諏訪地方の女工の問題へとつながることになった。

 これまで例えば女工哀史(著者、細井和喜蔵)などを単に小説として読んではいたのだが、江戸時代から続いてきた丁稚番頭の時代から現代の賃金へと移る過程には、どうしても産業というシステムが欠かせないものになってくることから賃労働の歴史に踏み込まざるを得なくなってきた。
 もちろんそうした賃労働化現象は日本のいたるところで起きていたから、特に生糸の生産にかかわっていた諏訪地方の女工に限られるものではない。

 ただ女工を一つの手がかりとして賃金を考えてみたいと思ったのは、資料を探している過程で山本成実のノンフィクション「あゝ野麦峠」に接する機会があったからである。しかも 研修期間中は寮生活をしていたが、その寮は新宿区内にあった。そして東京駅を始発としてはいるがむしろ新宿駅を基点とするダイヤの組まれ方をしている中央線が、終点松本の途中にある諏訪湖周辺に既に歴史ではあるが女工の活躍した製糸工場がひしめいていたことから、必要によってはその地を訪ねて論文のヒントを得ることができるのではないかと思ったのも興味の中にあった。結果的に岡谷の街は訪ねてみたものの、バスなどの交通機関もなかった野麦峠にまでは足を延ばすことはできなかった。

 それが単に峠というだけだったり、長野峠とか松本峠みたいな地名を冠しただけの峠の名称だったならそれだけの話しになってしまったのかも知れない。だが「野麦」という呼び名はどこか人を引きつける魅力ある響きを持っていた。

 野麦とは熊笹の実のことである。笹は普通葉を茂らせ地下茎を伸ばして繁殖していくが、天候不順で大凶作が来るような年には痩せた穂のような実をつけるのだそうであり、飢饉の時はこの実を粉にして団子を作って飢えを凌いだこともあったようである。野麦は笹が子孫を残し種として生き残るための必死の自衛の手段であり、同時に野麦と名づけた人間にとっての飢えそのものの象徴でもあったのである。

 それが数年前に訪れる機会に恵まれた。とは言っても名古屋行きのフェリーを割安で利用できる機会があって、それならば退職後の気まま旅として越中八尾の風の盆を見たいと思いついたのがきっかけであった。
 気が向けば民宿へ泊まるのもいいがこれまで北海道あちこちで実践済みのマイカーを利用した野宿を基本に動きたいと思いつく。毛布に携帯コンロの自炊旅スタイルに我が女房殿はすっかり恐れをなしてしまって同行を躊躇したのはむしろ当然のことだろう。

 この旅の顛末はいずれゆっくり書こうと思うが、ともかくも8月29日に苫小牧から愛車を積んだフェリーは31日早朝に名古屋へと無事着いた。風の盆は明日9月1日の夜からである。それまでの時間を使って野麦峠をこの目で見ることに決める。ルートは決めた。名古屋から岐阜県中津川へ行き、そこから馬込、妻籠を経て長野県の木曽福島へ出る。そこから枝道に入って開田村、更に岐阜の県境を越えて高根村から小道とも言える細道をたどると野麦峠である。かつての工女のような根性も体力もないこの身にとって愛車を駆って始めて可能なルートである。

 峠へ向かう小道に入る。中山道はかつて歩いたことがあるけれどここからは始めての地。いつか訪ねようと心に決めていた異邦の地。車に載せたMDプレーヤーにメンデルスゾーンの交響曲「イタリヤ」を差し込む。軽快な見知らぬ土地への浮き立つような気持ちが伝わってくる。対向車が来たらどうしようというほどの細い九十九折の山道だがそれでも簡易な舗装はしてあるのでスピード控えめなら軽快なドライブである。

 着いた。ここが野麦峠である。朽木に「お助け小屋」との看板が打ち付けてあり、近くに山本茂実の「あゝ野麦峠」の一節、病気の妹を背負って飛騨へ戻ろうとする兄、そしてこの峠から「飛騨が見える」とつぶやいて息絶える妹の彫像が建っている。

 一面に生えている地面の笹は熊笹なのだろうか。飢饉という語など既に死語になってしまっているが、今でも野麦は実をつけるのだろうか。
 確かに工女のなかには裕福な生活を送り、幸せな結婚をした者もいた。それでも人買い同然の口入屋の口車に乗せられたり前借に縛られたりなど、原因は様々だとしても飛騨から信州への出稼ぎはまさに飢えからの逃避であり、糸引き工女の持ち帰る僅かの現金を祈るような思いで待ちわびている家族の貧しさそのものでもあったのである。

 そして確かに飛騨の女はこの峠を歩いて越えたのである。正月の僅かの休みを、親や小さい弟や妹へのささやかな土産を持ち必死に貯めた少ない賃金を胸に雪の峠を故郷へと歩いたのである。成功した工女もないではなかったが、誰にも告げられないまま身ごもって帰る者、不治の病で働けなくなって帰される者も多かった。
 ここにあるお助け小屋は数年前に麓の小屋を移築したもので当時の茶店とは違うと何かの本で読んだことがあるけれど、「お助け」そのままに工女の命の象徴でもあったのかも知れない。

 平日のせいなのだろうか、まだお昼を少し過ぎた頃だというのに峠に私以外の姿は見えない。心なし鳥の声さえ聞こえないようである。うす曇りのしじまの中でゆっくりと目をつぶって深呼吸をしてみる。風の音はまるで黙々と歩いていく工女の群れのざわめきのようである。
 いま確かに野麦峠に立っている、そのことを吸い込んだ木々の匂いの中で私は実感する。

 さて念願だった峠をこの足で確かめることができた。狭いながらも車の通れる峠道は、かつての工女が胸までの雪をかき分けてお助け小屋へとたどりついた時代とはまるで違っているだろうが、それでもどこかで残っていた心のしこりの解ける場所でもあった。ここを過ぎて長野県である。スーパー林道から白骨温泉にでも浸かってから再び飛騨へと車を進めることにしよう。

 人がここまで傲慢になれることをあたかも証明しているかのように飛騨山脈をぶち抜いて作られている阿房トンネルを抜けてみようか。このトンネルの真上に野麦峠があるわけではないけれど信州と飛騨を結ぶこの長いトンネルは、野麦峠を歩いて越えた工女の想いへのひとつの皮肉でもある。今日の泊まりは飛騨古川に決めた。役場の駐車場の隅でも使わせてもらって車での野宿もまた旅の醍醐味である。