本州の名立たる湖沼でも凍りついた水上での釣りはワカサギらしいので、ワカサギ釣りは全国的な冬の定番行事になっているのかも知れない。
 かつて帯広に勤務していたころ、仲間などからけっこうワカサギ釣りを誘われることが多かった。だが帯広を含む十勝地方は北海道でも有数な酷寒地帯である。網走湖などワカサギの名所は数多くあるものの、凍った湖面に穴を開けて釣り糸を垂らすこの作業は、ぬくぬくと暖房の効いた部屋でテレビを見ていることの多い怠惰青年にとってはけっこう億劫なものであり、しかもそのための道具もない身では断るしかない。

 そんな状況の時、職場のグループ数人で一泊での糠平温泉行きの話しが出た。糠平温泉は大雪山系の東側、東大雪と呼ばれる地域にあり、糠平湖(糠平ダムの建設でできた人造湖)を中心に発展した風光明媚な観光地である。
 私が勤務していた頃はまだ士幌線と呼ばれた国鉄が帯広から走っていて、糠平温泉はその終点であった。更にむかし、この士幌線はここを超えて十勝三股と呼ばれるところまで通っていたのだが、この頃から始まった国鉄民営化につながる合理化政策などの影響もあって北海道各地のローカル鉄道は廃線の瀬戸際にあり、この線路も私が勤務している間に廃止されてしまった。

 もちろん帯広からはこの地へも道路が通じており、糠平温泉から幌鹿峠を越えて然別湖へと向かう道と、もう一本三国峠の長いトンネルで大雪山を突き抜け大雪ダムそして旭川方面層雲峡へと続くルートであり、それらは今も健在である。

 さて、温泉一泊と言ったところで結局はお湯に浸かって酒を飲むだけのことである。糠平も阿寒も定山渓も、どこの温泉に泊ったところでこうしたパターンに変るところはない。そこへワカサギ釣りの話である。釣り道具は旅館から一式貸してくれるというし、昼から出かけたところで宴会の開始までせいぜいが麻雀にうつつを抜かすのが関の山であれば始めての経験も悪くはない。

 海釣りの経験は何回かあるがワカサギは初めてである。釣れなくても湖上で寒くなったら引き上げて温泉に浸かればいいじゃないかと思いつくと、がぜんその気になるのはいつもの単純さである。
 そして突然ひらめいた。とは言っても所詮は下司のひらめき、ニュートンやアインシュタインのひらめきには比すべくもない。だがとにかくひらめいたのである。ひらめくと同時にそのことに固まってしまい、なんだかとてつもなく素晴らしいアイディアに思えてしまう。それがまた下司のひらめきたる所以でもあるのだが・・・。

 ひらめきとは何か、「天ぷら」である。釣りあげたワカサギをその場で天ぷらにして食おうというのである。何と素晴らしいひらめきであろうか。

 さっそく密かに準備にかかる。単身赴任ではあるが、滅多に使わないながら天ぷら鍋は台所に隅に鎮座している。油はプラスチックのボトルに入ったサラダオイルでいいだろう。火の気はすき焼き、湯豆腐なんでもござれの卓上コンロがあるではないか。他になにか不足はないか。衣のために小麦粉少々それに生卵、そしてそれを混ぜるための容器も必要だろう。天つゆは麺つゆを小さな瓶にでも入れていけば十分だろう。おっと大変だ、割り箸と天つゆを入れる小鉢を忘れるところだった。それにそれに小麦粉を溶く水だって必要になるだろう。

 たかだか小指よりも細い5〜6センチの小魚のためにけっこうな騒動ではあるが、このひらめきの嬉しさに比べるならなんということはない。丈夫で大きめの紙袋に卓上こんろや天ぷら鍋などを詰めてみるがそれほど大層な荷物ではない。
 出発に当たりこれが一番の目的なのだが、冷蔵庫から缶ビール2〜3本も用意した。到着までに多少ぬるくなってしまうだろうが、なんたって真冬の湖上である。着いてすぐ寒風にさらしておけばいいだけのことである。卓上コンロのボンベは念のため新品に取り替えたから満タンだし、その他のチエックも万全抜かりはない。あとはこのひらめきの味を楽しむばかりである。

 旅館へ着いた。針つきの釣竿も借りた。餌はどうしたか全然覚えていないのだが、もし必要なのだとしたら旅館で提供してくれたのだろうし、場合によってはワカサギ釣りには餌の心配などないのかも知れない。
 釣り場は旅館から近い湖上で、既に先客が何人か釣り糸を垂らしているが岸からそんなに遠くはない。仲間と一緒にこれも旅館から借りてきた氷に穴をあけるドリル様の道具で湖上には直径10センチほどの穴も開けた。コンロの用意よし、小麦粉を水で溶いて卵を割りいれざっくりとかき混ぜる、大根おろしこそ用意してこなかったが小鉢の麺つゆも水で割った。鍋に油を注ぎコンロに火をつける。もちろん缶ビールは氷上でギンギン冷えている。すべての準備は万端整った。後は釣果を待つばかりである。

 さて満身の期待の中で第一のトラブルが発生した。釣果が伴わない、つまり釣れないのである。ワカサギはそれなりの釣果の期待できる魚である。数匹なんてことはなく数十匹くらいは当たり前に釣れるはずである。だが竿に反応はなく、どうにも結果が伴わないのである。
 聞くところによるとワカサギは湖水を集団で回遊しているのだという。だからいつも釣り人の目の前に団体で釣られるのを待っているわけではないのである。回遊コースにぶつかり、回遊のタイミングにぶつからないと、大量のワカサギといえども獲物にはなってくれないのである。

 時に一匹、しばらくしてまた一匹。とりあえずその都度天ぷらにはするのだが、小ぶりでめだかみたいな一匹のワカサギではどうにもひらめきで感じたようなワカサギの天ぷらとは違うのである。爪楊枝みたいなもやしの天ぷらを食うようなもので、それも一瞬で食ってしまえる上に二匹目が続かないのだから、いわゆる「天ぷらを食う」というイメージには程遠いのである。

 だから折角のビールも寒風の中のビールだけなのである。酒の肴のないただのビールだけなのである。しかもジャンパーは着ているものの屋外である。湖上を渡ってくる風は寒い。暖房の効いた室内でステテコ一枚で飲むビールとはまるで違うのである。そもそもビールを飲むような雰囲気になどまるでならないのである。

 そして間もなく第二のトラブルが発生した。待つこと小一時間、どうやらワカサギの回遊が巡ってきたらしい。仲間も含めて少しずつ釣果が上がってきたようだ。釣りあげて氷上に置くワカサギの数も少しずつ増えてきた。さてさて、これからが本番である。ワカサギだけではない、ビールともども期待の成果が間もなく訪れるはずである。

 氷上にたまったワカサギを4〜5匹まとめて衣をつけ油の中に放り込む。小魚である、待つ間もなく天ぷらの仕上がり(のはず)である。ところがなんたることか。いかに釣り上げたばかりとは言え、衣につけたワカサギが油の中で泳ぐはずもないだろうが、とにかく天ぷらになってくれないのである。生の衣姿のまま油の中にじっとしているのである。つまり油の温度が上がっていないので天ぷらになってくれないのである。

 ボンベのガスが切れたのか。そうではない。外して確かめたボンベのズシリとした重さがまだ使い始めのままであることを示している。ならば風で火が消えてしまったのか。ここは湖上、確かに風はあるがそんなに強くはない。卓上コンロが風に弱いことは知っているが、風上に紙袋やリュックなどを置いてコンロを囲み注意しているのでそんなはずはない。

 ではどうしたのか。原因は寒さにあった。なんと卓上コンロのボンベはこうした氷点下に近い寒さのもとではその役目を果たしてくれないのである。でも、ついさっきは天ぷらになっていたではないか。
 だがそれはボンベにそれまでの余熱があったからであった。つまり、コンロごと紙袋のなかで長く暖められていたボンベがその余熱でしばらくはそれなりの火勢を保つことができたからなのであった。

 止む無くボンベを外してジャンパー中でしばし暖めてみる。だが液体になっているボンベの中味全体を暖めるにはけっこうな時間が必要であることが分かった。数分間の抱擁くらいではなかなかどうしてこちらの想いに応えてくれることはないのである。急かしてみても点火直後はそれなり火はつくけれど、瞬く間にその炎はしぼんでいってしまうのである。そしてそれは何度繰り返しても同じ効果を示すのみであった。

 確かに数本のワカサギの天ぷらは食べた。数日前からの期待と苦労を考えると、味わうというほどの量ではなかったけれどそれなり口に入れたのは事実である。やせ我慢の強がりになるかも知れないけれど、獲れ立てのワカサギの天ぷらの香りも確かに嗅ぐことができた。

 それにしてもボンベも、衣も、缶ビールも、天つゆもまだ手付かず状態のままである。缶ビールは完成品ではあるけれどこの吹きっさらし中では、そもそも飲もうとする気力の湧くはずもない。
 かくしてわが勇猛果敢なワカサギ釣りへのひらめきは、なんともあっけない敗残の幕切れを迎えることになってしまった。

 もちろんその夜の宴会には、大皿にたっぷりと盛られたワカサギの天ぷらがテーブルにドンと並べられた。「飽きるほど食え」と言わんばかりである。
 もちろん食った。だが違うのである。味も香りも、あの氷上で食った数本のワカサギとは比べものにならないのである。負け惜しみが生んだあらぬ妄想か、はたまたイメージに影響された思い込みによる幻想かも知れない。だがあの口にした数本の貴重なワカサギの天ぷらは、二十年以上を経た今でもあの時のひらめきの味を確実に伝えてくれているのである。


                          2007.3.3    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



糠平湖のワカサギ釣り