桜が散ってしまってから数ヶ月になる。桜は特に「三日見ぬ間の」であり、「三日見ぬ間に」だから、桜の木そのものは年中同じところに立っているのだが、それを桜と認識する期間は驚くほど短い。

 私の毎日歩いている道路沿いにも桜の木は何本か植えられている。また来年の春になれば蕾を眺め、花を愛で、散りながら足元に積もる花びらに来る春、逝く春を感じることができるのだろうが、今の季節ではすっかり忘れられた桜になっている。

 そうした街中の桜の中に山桜もある。桜と言えばその豪華さや気象庁が発表する桜前線の標識になっていることもあって染井吉野ばかりが有名になっているけれど、驚くほど多様な桜が日本には存在している。
 かつて秋田県を車で旅行した折、男鹿半島の付け根、八郎潟の東に位置する井川町の日本国花苑を訪ねたことがあり、そこに植えられているという200種2000本と言われる桜の多様さに驚いた記憶がある。

 今日はその話ではない。山桜である。サクランボは山形だけではなく北海道でも春先の名物になっているが、市場に出回っている国産の多くは私のつたない知識によれば「さとうにしき」(佐藤錦とでも書くのだろうか)と呼ばれる品種で、花そのものが観賞されることはなさそうである。

 だがそうした商品としてのサクランボだけがサクランボなのではない。サクランボは単に桜が子孫を残すための実であり種にしか過ぎない。どんな桜だって子孫を残してこその生物なのだから、山桜にだって立派にサクランボが実るのである。

 今となっては「マッチ」そのものが歴史的な遺産になってしまったかのような感があるけれど、山桜の散った後にマッチの軸よりも二回りほど大きい似たような形の二本つながりのサクランボがつくのである。そしてそれが段々に実ってくるとその実は青から薄紅色へと変化し、やがて赤くなり6月から7月にかけて黒く色づいてくるのである。

 私の生まれた夕張にも山桜がたくさんあった。そうしてやがて黒く色づき熟した実が枝々にそれこそ無数と言ってもいいほどにぶら下がるのである。
 私の子供の頃でも「さとうにしき」のサクランボは市販されていたのだろうか。仮に市販されていたとしても果物を家庭で食べるなんぞはとてつもない贅沢な戦後間もない時代だったから、子どもの私にそれが口に入ることなど皆無だった。

 だからサクランボは自力で調達するしかないのである。そういえば山には子どもの足でも歩けるところに山ぶどうやこくわや桑の実や山グミなどがあり、我が家にはなかったけれど隣近所の庭にはグスベリと呼んでいたすっぱくて青い小指の先ほどの実など、色々な果実があった。

 ところで山桜のサクランボは黒く実ると食べられるのである。種がけっこう大きくて食べることができるのは上皮とも呼ぶべき種を包む僅かな部分だけなのだが、それでも少し甘いのである。口の中も舌も真っ黒になり、苦味の方が強くて甘さは僅かしかないのだが、それでも甘さに飢えていた子どもにとってその僅かの甘さは貴重であった。

 菓子も果物も、砂糖すら不足していたその頃の生活にとって、子どもが自力で手に入れることのできる天然の甘みは貴重であった。そう言えばかつてここに発表したエッセイの中で塩を砂糖に変える魔術とも言えるような方法を発見した経緯を書いたことがあった(別稿「塩を砂糖に変える錬金術」参照)。それだけ甘いことは当時の子どもにとっての夢の一つでもあった。

 その程度の甘さなど、現代の飽食の時代にあっては何の価値もなくなった。溢れるほどにも甘さは日常生活の中に当たり前のように入り込んできた。甘さを求めること自体が意味を持たなくなった時代になったと言っていいかも知れない。

 毎日の通勤でその山桜の下を通る。花は既に散ってしまっていて、その木を桜だと気づかなくなってからしばらく経っているのだが、地面に落ちている黒いサクランボの粒が改めてその木を桜だと知らせてくれている。

 昔は良かったなどとは言うまい。それでもかつてそのサクランボは唇や舌を真っ黒にさせ、僅かな甘味を与えることで子どもたちを楽しませてくれた。そして地面に落ちた無数の中のいくつかは、花を咲かせるような大木にまでに成長するのは難しかったかも知れないけれど芽を出したものも多くあったことだろう。

 だが今は違う。実った種を食べる鳥はいるのだろうか。桜に群がる鳥の姿などあまり見たことがないし、その実が食べられるのだと知る子どもの姿さえもが既に消えた。地面は木の周りの僅かな地面を除いてアスファルトですっかり舗装され、歩道に落ちたサクランボはそのまま人に踏まれ自転車につぶされて種だけの無残な姿をさらしている。そしてその種さえもがやがて砕かれ雨に流されて存在の痕跡すらもが消されてしまうことになる。

 だからその実は存在したことすら伝えることなどできないのである。かつて旅行で飛騨の白川郷を訪ねたとき、その近くにある荘川桜の移植にかかわった「桜守り」の話を聞いたことがある。御母衣(みほろ)ダムの建設で水没してしまうその桜の古木をなんとか残そうとした男の話しであり、その後名古屋から金沢までの道々に2000本の桜の苗木を植樹することに生涯を賭けた男の話でもある。話の中で桜は実生(種から成長して一人前になること)がとても難しい木だと言うことを知った。

 それでも実るサクランボは子孫を残すための生物としての桜の手段である。春早々に山肌の所々を薄桃色に彩る山桜のぼんやりとした遠景は、そうして自らの子孫を残してきたことの証である。実生の難しさは、生き残りを賭けた厳しい生存競争の表れなのかも知れない。その僅かな生き残りの手段さえもアスファルト舗装は完璧に奪ってしまい、人はその上を何の感慨もなく闊歩している。

 「実のならない花も、蕾のまま散る花も・・・」(「さくら」)と歌手こぶくろは実らない恋を皮相のように歌うけれど、咲かない桜は今ここに、このアスファルトの上にあからさまに見ることができる。

 今の子どもたちはこの山桜にサクランボの実がつくことすら知らないだろうし、当然その実が食べられることを知らずこれから知ることもないだろう。去年の秋に真っ赤でふくよかで小さなオンコの実(いちいの実)を食べてみた。ぬるぬるとして少し甘いだけのしょうもない味なのだが、こうした食べることのできる木の実の存在そのものを知らない子どもたちが増えていることに、私はアスファルト舗装の残酷さ以上の危機感みたいな感情を抱いてしまうのである。



                          2007.7.26    佐々木利夫


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山桜にサクランボの実る頃