顔くしゃくしゃにして「おいしいー」とか「うめー」を絶叫し、一万円以上もするような料理をゴージャスだとか至福の時だのとのたもう。時には千円、二千円の料理に、「お安い」、「お得」を連発する。
 私にだって食べ物に好き嫌いはあるし、美味いものを美味いと感じる舌だってそこそこ持っているつもりである。
 ただこの頃の食を巡るテレビ番組や世の中の動きなどはどこか変だ。一つは本当に美味いと思っているのか、その美味さを本当に分かっているのかという疑問であり、もう一つは食べることがゲーム化しているのではないかという疑問である。
 味も何もすっ飛んでしまっているような大食い競争、味わいを言葉で表そうと必死に新しい言葉を探そうとしている地元産品アピール番組のアナウンサー、食べた瞬間に絶句してその絶句するほど美味いのだと宣伝している新装開店のレストランでのお笑い芸人たち・・・。

 味覚障害という病気もあることだから、味の分からない人がいる一方で味の理解の程度も人様々だろうとは思う。だが人間の味覚は、舌にある味蕾(みらい)という細胞への刺激によるものであり、人間の感覚機関の中では比較的鈍感な部分であるとの意見も聞いたこともある。

 そして私が思うのは、本当にあんなに美味いのだろうかという疑問である。あまりの素晴らしい味に、声が出なくなってしまったり、思わず顔がくしゃくしゃになってしまうほどのものなのだろうかという疑問である。
 逆に言うと私はそうした全部が嘘だと思うのである。もちろんその証拠は私の舌である。だから私の舌が壊れていたり鈍かったりしているとするならば、これからいっぱし気取りに書くこと全部が客観性のない独り善がりのたわ言ということになる。しかも同時にそのことは私がこと味に関してはまるっきりの音痴であることを示すことでもある。

 それでもテレビでリポーターやタレント芸人が誉めそやすほどの美味さは嘘だと思ってしまうのである。味にだって色々あるのだとは思う。その中には例えば品種や産地などの違いによって大根の辛さや歯ざわりの違いが生まれてきてそれを味わうことのできる人がいるであろうことを分からないではない。だがそれは顔をくしゃくしゃにして「美味い」と叫ぶような美味さではないと思うのである。「へえー、いつも食べている大根とは少し違うね」と言うような、静かな味の違いではないかと思うのである。

 「口が曲がるほど辛い」という表現があるし、子供の頃唐辛子を知らずに食べた記憶のある私としてはそのことが実感として分からないのではない。だが、私はそんな絶句するような、顔がくしゃくしゃになってしまうような、そんな美味さをいまだかつて感じたことなどないのである。

 こんなことを思いながらテレビの料理番組を見ていたら、2月18日(2007年)の朝日新聞のコラム「天声人語」にこんな記事が載っていて、さもありなんと同感してしまった。

 反骨の名文記者として知られる門田勲は、食べ物の記事を好んで書いた。ある時、竿釣りのカツオはうまいと食通から聞き、繊細な舌に感心しつつ、考えた。最高の食材が常に手に入るわけではあるまい。ならば鋭い味覚の持ち主は、味を楽しむより不満を感じる方が多くはないだろうか。そして、「幸せは適度な鈍感にあり」と45年前の週刊朝日に書いた。・・・・・・ところで門田は、ある蒲焼きの老舗で、いかに上物のウナギか、いかに丹精込めて焼くかと、さんざん能書きを聞かされた。げんなりしてしまい「いいかげんなやつを気楽に食べさせてほしい」と書き残している。

 テレビでは料理番組を紹介したり食べ歩いたりするスタッフの全員が、ある時は絶句し、ある時は顔をくしゃくしゃにし、ある時はこれ以上ないと思われるような賛辞を並べて目の前の料理を誉めそやす。
 テレビなんだし、まさかに不味いと批判することなどできないかも知れないけれど、料理番組はコマーシャル番組ではないはずである。時には「私の口には合わない」くらいの表現はあってもいいし、あるのが当然ではないだろうかと、つい私は思ってしまうのである。
 ましてやそうした嘘を演出などとごまかしてはならないと、最近のメディアの番組捏造事件や論説の他者からの盗用などを見るにつけ考えてしまう。

 もし彼らのオーバーアクションが自ら味わっている料理の美味さへの真正な実感なのだとするならば、そうした表現をしている彼らの全ては少なくとも味に関しては不幸である。そんな最大級の賛辞を示せるような料理など、滅多にお目にかかれることなどないだろうからである。

 つまりそうした最大級の味を知ってしまったアナウンサーやタレントは、自分の表現した賛辞が己の実感であるという前提の下では、それ以上の美味い料理にめぐり合えるまでは常に不味い料理と付き合わなければならないという宿命を持つことになる。そんなに即座に強烈に美味さを区別できる素晴らしい舌を持っている彼ら、彼女らである。少しでも不味ければその不味さをすぐに見分けることなど容易だろうからである。見分けなくたっていい。本人の舌が即座に答を出すであろうからである。

 その点私などはそれを適度な鈍感とは呼べないのかも知れないけれどなんとも気楽である。絶句するほどの味にも、顔が融けてしまいそうになるほどの味にもこれまでぶつかったことなどないからである。
 いや、そうした言い方は間違っているかも知れない。テレビ番組を見る限り私にだって同じような美味さの場面にぶつかったことなどそれなりあったことを思い出すことができるからである。獲れたての生きている牡蠣や一本数十万円と言われたワイン、神戸牛のすき焼きや幻の銘酒と呼び声の高い日本酒や焼酎、グラム数万円もする玉露などなど、考えて見れば高級料理や高級食材と呼ばれるような場面に出会うチャンスがこれまでになかったわけではない。

 それらの高級料理を不味いというのではない。ただ、普通においしかったと思っただけなのである。「これは美味い・・・」などと走り回ることなければ、絶句したり大声を出したりしたことすらなかったような気がする。そんな高級料理も悪くはないけれど、山奥の旅館のランプの明かりで食べたふきのとうの天ぷらや若い頃小遣いが足りなくて寮の仲間4人で分け合って食べた10円で3枚のせんべいなどだってそれなり美味かったと思っている。そして今だって毎日の納豆や豆腐やホーレン草のおひたしやサンマの塩焼きなどなど、これまた絶叫してどたばた走り回るほどに美味いとは思わないけれど、インスタントコーヒーにそれなりホッとする程度の味わいを感じることはできる。

 つまりは不味いものなどなんにもないと言うほどではないにしても、毎日普通に食べているものにだってそこそこの美味さを感じるほど、私の舌はいい加減ということでもあろうか。そして考えてみれば、美味さに絶叫している人種よりは確実に、しかも圧倒的に私のほうが美味さに出会うチャンスが多いことを示していることでもある。
 だからそうしたいわゆる「味の分かる人」が表現している様々のアクションや表現は、嘘だと思うのである。それでなければその人たちがあまりにも可哀想だからである。

 そして食は少しずつ「食べ物」というジャンルから外れようとしている。食は本来食べることそのものにあったのではないのか。食べることで体を維持し成長していく、そのための必須の要件としての食べ物の存在が本来ではなかったのか。

 食べ物で遊んだり、ゲームの手段にしたり、おもちゃにしたり、何かを実現させるための交際などの手段にしたり、人は食べ物を生きること以外に利用することを覚えた。そのことになんだか無性に腹が立つのである。そうした手段に食べ物を利用してはならないと考えるのは、飢えを知っている私たち世代にとっては余りにも当たり前のセオリーである。

 ついこの前まで日本には飢えがあった。食べることは生きることであった。それがいつの間にか飽食の時代と呼ばれるようになって久しい。飢えからの解放は別の飢えを創りだした。
 なんでも飲み込んでしまう「穴」を星新一は「ポッコちゃん所収の『おーい、でてこーい』」というSFショートに仕上げた(別稿「ゴミが消える」参照)。何でも飲み込む穴のつけが回ってくるという、けっこう怖い話なのだが、止まることの知らない欲望に身を任せているかに見える今時の人たちを見ていると、ふとこの物語を思い出してしまう。


                          2007.2.24    佐々木利夫


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