定年を迎えてから間もなく10年になろうとしている。小さなワンルームに税理士事務所の看板をかけてはいるものの、つまるところひとり天下の大統領執務室である。こうしたホームページへのエッセイ発表の掛け持ちに加えて本を読んだりテレビを見たりインターネットで遊んだり、時に昼寝を加えた至極気ままな生活だから、一生懸命働いているというイメージからは少し遠のいているのが現状である。

 まあそれはそれで、長かったサラリーマン生活からの解放でもあり、しかも一人の書斎みたいな自由空間がここにあるのだから、最近の流行りの言葉で言うならこれまでの自分へのご褒美みたいな意識もあって、それなり楽しんでいる。

 そんな中で10年来続いている事務所での仲間との飲み会、それに続く二次会が終わって午前0時を少し過ぎた自宅のテレビをつけたときのことである。中国大陸を旅行する日本人リポーターの紀行番組に出会った。

 その映像は一人の中年の女性が黙々と綿の実を摘んでいる風景だった。綿畑の風景などアメリカ開拓時代の黒人奴隷が出てくる映画などで見たことはあるものの、日本の風景ではあんまりお目にかかった記憶はない。そもそも布団に詰められていたり木綿の原料などとして見慣れているはずの綿が、こんなにもふっくらとした花のような実から紡がれることに驚いた記憶がある。
 そんなこともあって高山でワタスゲが風に揺れているような珍しい風景に少し見とれていたのだが、その一面の綿畑に女性がひとり、右手で綿の実を摘みそのいくつかを左手で胸に抱え、少し溜まると近くの袋に投げ入れていく姿が映し出されていた。

 そしてそのとき何の脈絡もなく、ああ働くってのはこう言うことなのかも知れないなとふと思ったのである。機械も道具もなく、ただひたすらに手作業だけで綿の実を摘む姿に、なんだか働くことの根っこを見たような気がしたのである。
 綿を摘む彼女の顔に特別な表情はなかった。テレビカメラなど見たこともないかのように、ただ黙々と綿を摘んでいた。笑顔さへもなく、無表情と呼んでいいほどにも仕事だけを続けていた。その表情からは苛酷な勤労に対する嘆きや辛さも、陽光や雨や豊かな実りに対する感謝の気配すら読み取ることはできなかった。

 やがて夕暮れが迫ってきた。少し薄暗くなってきた畑へ夫が迎えに来る。綿の実を詰めた袋を夫婦で抱えて一緒に帰っていく。恐らくはこれが日常なのだろう。当たり前の日常が、当たり前に過ぎ去っていく風景なのだろう。こうした風景はこれまでも当たり前に続けられてきたのだろうし、これからも続いていくのだろう。

 それにもかかわらず、その綿の実を摘む姿が働くことであり、農業なのではないかと私には思えたのである。俳優なのだろうか、見たことのある男性のリポーターがその綿摘みを手伝う場面もあった。その手伝いが終わって彼女は感謝の言葉をかける。心から感謝しているふうだったが、だからと言って無表情さに変るところはなかった。

 別にそのリポーターは綿摘みの作業を手伝ったというほどの仕事をしたわけではないと私には思えた。単なるテレビ撮影のための演出でしかないだろうと思える程度の仕事量だった。だがそうした手伝いに対して笑顔さえ見せていないにもかかわらず、心から感謝している気持ちがありありと見て取れる姿がそこにあった。

 人はいつからか効率だけを求めるようになってしまった。もちろんこの綿畑だって、私に綿栽培の知識はないけれど土地を耕し種を播き雑草を駆除するなどの手入れをした結果としての収穫だろうから、そこに何らかの道具であるとか肥料などといった道具や機械などの出番があったに違いはないだろう。

 それにしても人は効率という呪文をあらゆる場面に唱えようとした。それが経済であり成長なのだと人は思おうとした。巨大な機械が巨大な建物を作り上げ、組み立て作業の人の動きにまで無駄の排除が数センチの距離や分秒の単位まで検証されるまでになった。
 それでも効率という怪物は際限のない空腹を持っていた。「はらぺこおなべ」の物語は魚を食い尽くし、くじらまで飲み込んだ末に地球を離れて宇宙へと空腹を満たしに飛んでいく鍋を主人公にした童話だが(別稿「はらぺこおなべ」参照)、効率という怪物もまた行き止まりのない食欲を押さえきれずにいる。

 この綿摘みの女性の姿は、そうした社会の底知れぬ欲望に、「ちょっとゆっくりしてみたら」、「少し休んでみたら」、「働くってのは満足とか悲壮感などとは少し離れたこんなにも当たり前のことなんだよ」と呼びかけているような気がしたのである。働くことの一番の基本がこんな当たり前な日常にあるのだと、あたかも文明だとか組織だとかを別世界に置いているような彼女の無表情さが伝えているように痛いほど感じたのである。
 そして人はいつか「はたらく」と言う至極当たり前のことをどこか遠い昔に置いてきてしまったのではないかと思ってしまったのである。

 だからこの昼寝つき事務所の毎日も決して怠惰なのではなく、ゆっくりとした、そして落ち着いた仕事の日々が続いているだけなのです。・・・ん?。



                          2007.11.28    佐々木利夫


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