昨年の暮れ、半ば自分に強制されたかのように戸惑いつつもゲーテのファウストを読み終えてから(別稿『ファウスト、つまみ食い』参照)、どこか頭の隅で囁き続けている声があった。
 それは小さいのだが決して消えることなく、あたかもフーガのごとく、時に大波のうねりのごとく繰り返し私に囁き続ける声であった。声はこんな風に囁いていた。「次はダンテの神曲だな・・・・・」。

 私はこのダンテの神曲を読んだ記憶がない。恐らく世界の名著の一つとして試験勉強か高校時代の期末テスト用の単なる知識として教え込まれたか暗記したものなのだろう。大体が題名からしておどろおどろしく、大げさではないか。

 「神曲」というからには恐らく宗教色の強いものだろうし、この歳になるまで外国の様々な書物に接して一番困惑したのがこの宗教という代物にぶつかった場合であることは既に十分理解しているはずであり、かつ懲りてもいたはずであった。
 それは私が日本人だからなのか、それとも宗教とは無縁の生活を長く続けてきたことによるものなのか、それともそれとも、そうした神の関わる分野への単なる私の無知のせいなのか、そこんところは必ずしもはっきりしないのだが、ともかくもそうした場面になるとどこか私の理解にカスミみたいなものがかかってしまうことは否定のできない事実であった。

 宗教小説とでも言えるような大げさな作品でなくてもいい。普通の小説やエッセイ、時には童話のようなものにだって神や教会や夕べの祈りみたいなものが出てくると、違和感というほどではないにしても少し理解に距離を感じてしまうのである。それは例えば食事の前のお祈りなどのように、言ってることの全部がきちんと理解できるような場合であってもである。

 それがなんと「ダンテの神曲」である。「ゲーテのファウスト」、そして「ダンテの神曲」、どこかリズムと言うか匂いが似ているといえば言えなくもないけれど、とにかくこの著作が気になりだしたのである。そしていつの間にか帰り道の古書店でこの作品を探している自分がいた。

 古典そのものが単独で文庫本になるような例は比較的少ないだろうし、特に外国の古典にいたってはそれがたとえ世界の名著と呼ばれる作品であろうともそうした傾向が強いだろう。
 探して見つかるとすればゲーテのファウストでもそうだったように、例えば世界文学全集みたいな全集の中に収録されているケースである。
 私の知っている程度の古典ならすぐにでも見つかるはずであった。似たような全集が見つかった。だがその中にはなぜかダンテは収録されていなかったのである。見つかったならパラパラとめくってみて、自分の手に負えるかどうかをその場で判断し、気に食わなければ買わなければいいだけの話である。

 しかし著名な作品(と私が勝手に思い込んでいるだけなのかも知れないが)であるにもかかわらず、全集の中に見つからないというのはどうも気になって仕方がない。他にも2〜3の古書店を回ってみたが、世界文学全集みたいなものは置いてあるにもかかわらず肝心のダンテの名が見つからないのは、どうにも私に対するあてつけのようである。
 いつの間にか見つからないなら見つかるまで探すまでだと、これまた私の変な意地が芽を出してくる。

 今どき世界文学などという分野に興味を持つ者などいないのだろうか。古書店でこそそうした分野の作品の在庫はあるけれど、普通の書店では雑誌などに押されて全集自体が敬遠されているようで、そもそも始めから置いていないようだ。
 そのことは店員に古典であることを伝えつつこの本があるかどうか尋ねたにもかかわらず、あっさりとシドニー・シエルダンなどのベストセラー作家の作品が並んでいる翻訳書コーナーへと案内されてしまったことからも分かる。あまりの意外さに「こんなところにあるわけないじゃないか」と抗議する気力すら失せてしまう。恐らく店員はダンテという著者名も神曲という書名も知識としてすら知らないのだろう。つまりは知識として必要がないほどにも売れないし、だからこそ置いていないということなのかも知れない。
 もちろん私だって、仮に新本で見つかったとしても、そこまでしてこの本を手に入れたい思っていたわけではないことは白状しなければならないのだが・・・。

 さて、それにしても探しても見つからないというのはどうにも癪である。ないのだから諦める、という選択肢もないではないし、諦めたからと言って誰に言い訳しなければならないわけでもない。それでもこれほどの名著が「探してもない」というのはどうにも心落ち着かないものがある。

 札幌の都心の古書店まで出かけて外国文学の全集コーナーの類を探せば見つかるのかも知れないが(恐らく見つからないであろうことを理解できたのはもう少し後になってからであり、そのことについては後から述べる)、近くの図書館なら見つかるだろうと思いついたので、返済期間が決められているという面倒くささはあるもののそうすることにした。

 ところがなんと私の通う図書館にも置いていなかったのである。札幌市内の全図書館の蔵書を検索するシステムで照会してみたところ、2箇所の図書館に置いてあることが分かった。
 分かったことは良かったのだが、得られたのは書名と著者名、そして現在貸し出し中か否かだけの情報だけである。手にとってパラパラめくって内容を確かめてみるということなどできるはずもない。

 この蔵書情報は、貸し出し中でない限り私の行く図書館でも館員に申し込むだけで手にすること、つまり借りることができるのである。そこまで分かったのにそこで諦める手はないだろう。読み終えた別の本を返すときにこの本を申し込んだ。数日を置いて本が届いたとの電話連絡があった。

 図書館は事務所の近くである。すぐに出かけて行って、図書館員からその本を手渡されたそのとき「しまった」との思いをかすかに感じた。
 世界文学全集に「ダンテの神曲」が載っていない理由がすぐに分かったからである。普通のハードカバーの本よりも一回り大きな判に上下二段組で印刷され、しかも普通の小説よりもずっとずつと小さな活字が並んでいる。しかも追い討ちをかけるようにずしりとした重さは400ページを超えている。この作品だけで全集一巻をはるかにオーバーするような分量だったのである。

 天下に名立たるトルストイの「戦争と平和」クラスの作品なら、全集二巻にまたがったところでそれなりの存在価値を示せるかも知れないけれど、どうやらこの本にそこまでの人気を求めることは難しいのかも知れない。
 返済期限は二週間後、ともかくも読み始めた。詩のような韻文で構成されており、ともかくも難解である。おまけに本文よりも更に小さい活字で注釈などが書かれているなど、努力の割にはページは遅々としてはかどらない。

 現在読んでいるのは、この本も含めて三冊の掛け持ちである。どうしても他の二冊に目がいってしまいそうになる自分を叱咤激励しつつ一行一行読み進めているが、なんとなく前途に暗雲が立ち込めているような気がしてならない。挫折してしまうのか、それとも斜め読みであっさりと通過させてしまうのか。
 どうやらきちんと理解しながら読み進めていくのは私の実力では難しいのではないかと、挑戦後僅か数日にして早くも逃げ腰になりかけている私がいるのです。やれやれ・・・・・・。



                          2008.2.13    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



しまった・・・、ダンテ