けっこうな意気込みで読破に挑んだゲーテの著作「ファウスト」だったが、どうやら無事に終着駅へとたどり着くことができた。そのとっかかりと読了までの経過については既にここに書いたけれど(別稿「多分?、恐らく?2度目の挫折」、「挫折の予感をかいくぐって」参照)、世界の文豪の壮大な作品に対する挑戦にしてはどことなく尻つぼみの結果に終わってしまったことに内心忸怩たる思いがしている。

 前作の「挫折の予感・・・」で末尾に、これでもう二度とこの本を読み返すことはないだろうと断じ、テーマの理解もできないまま本棚の肥やしになってしまうかのように書いてしまった。だがだからと言ってファウストの全部についてお経でも唱えるようにまるで理解できないままページを閉じてしまったと思われるのも少々癪である。
 全体のテーマの理解には必ずしも届かなかったとは言うものの、この物語が珠玉の言葉に満ちていることくらいは理解できる。もちろん私が読んだのは日本語訳だから、原作はもとより訳者の貢献も多いことだろうが誤解にしろはたまた思い込みにしろ頭の先から尻尾に至るまで丸ごとちんぷんかんぷんだったわけではないことを少し言い訳してみたい。
 読みながら気に入ったフレーズをいくつか書き留めておいたメモが残っている。作者の意図とは違うかも知れないけれど、ちりばめられた言葉の端々に人の世の様々を感じることができた。そんなメモの中からいくつかを並べながら、ファウストへ挑戦した思い出のよすがにするのも一つの記念碑であろう。


 「人間は精を出している限りは迷うものだ」(317行)
 あまりにも有名な言葉だから改めて引っ張り出すのも気が引けるけれど、時に「人は努力する限り迷うものだ」などとも訳され、迷うことが人であることの証でもあることを伝えている。主(神)がメフィストフェレス(メフィスト)へ語りかけた言葉だけれど、人を人たらしめているのはもしかしたら迷うことなのかも知れないとふと考えさせられる言葉でもある。そして迷いは常に決断を迫ってくることも・・・。


 「人生とは、色とりどりの影にすぎぬということが、よくよく納得できる筈だ」(4727行)
 人はつまるところ見果てぬ影を追いかけることで終わってしまうのだろうか。「満足すること」とても一つの影にしか過ぎないのだと彼は言おうとしているのだろうか。


 「一体、永遠の創造に何の意味があるというのだ。創られた物は、かっさらって『無』の中へ追い込むだけのことだ」(11598行)。
 ここでは創造することにも疑問を投げかける。しかもその創造の対象は永遠である。「永遠」と「無」を二律背反として捉えるのではなく、すべてを底知れぬ虚空の中に投げ込もうとしている。そしてそれにも関わらず次に引用したフレーズは、人はそれでも創造を続けていくだろうことを示唆している。


 「驚く、これは人間の最善の特性ではあるまいか」(6272行)。
 「驚くこと」は逆に無からの創造でもある。こんなところに無を超えてしまう力が創造には含まれていることを知らせてくれる。驚きは神秘を呼び、神秘は感動へと人を誘う。驚きを感ずる様々が時に虚空を照らす光になる。


 「若くて元気で恋もした頃は、こいつはいけると思ったものだ。面白可笑しい音楽に合わせて、脚も軽やかに動いたものだ。
  ところが意地悪の『老』(おい)がやってきて、撞木杖(しゅもくづえ)でおれをなぐった。よろけて墓の戸の上へころげたが、生憎(あいにく)その戸が開いていた」(11531行)。

 死霊たちはこんなふうに歌う。物語は既に終焉である。物語の完成はゲーテ81歳の時である。老いはゲーテにも訪れていたことだろう。このフレーズを彼が何歳の時に書き留めたのか私は知らないが、墓の戸の開いていることを、そして不意打ちでその戸へと投げ込まれるだろうことを彼は既に予感していたのかも知れない。 73歳の時に彼は17歳の少女ウルリーケ・レーヴェツォーに求婚したと伝記は伝えているが、少し諧謔的なこのフレーズは、老いの共感とともに文豪ゲーテを少し私に近づけてくれる。


 「自分を征服できない人に限って、思いあがって他人の意思を自分の思い通りにしようとするのですから・・・・・・」(7016行)。
 いつの世にも他人を従わせようとする心無い思いはあったのだと知ることができる。特にその思いが権力に結びついているときは大きな悲劇を生む。ゲーテはナポレオンと会っているし、かつ尊敬もしていたと聞いた。神も帝王も将軍も、力は時として弱いものを従わせようとして傍若無人な振る舞いを見せる。それは現代とて変わるものではない。毎日の新聞が、国内の政治だけでなく国際紛争や環境汚染対策や核兵器廃絶やテロなども含めて、際限なく「自らをコントロールできないまま他人を従わせようとする力」が歴史としての今に働きかけていることを伝えている。


 「簡単に手に入るものは、ぼくは嫌いさ。苦心して捉えたものだけがぼくを嬉しがらせるんです」(9780行)。
 それでも捉えようと苦心することの中にこそ実現の喜びのあることもまた事実であろう。人はそれを努力と呼び、希望と呼んでいつか実現するだろうことを夢見る。
 だがそれは与えられるものではなく自ら探し出していくものだとこの文章は伝えている。昨日の新聞はノーベル物理学賞を受賞した故朝永振一郎の言葉として、「教師の役目を、生徒に知識で満腹にさせないこと」だと紹介していた('07.12.6 朝日、天声人語)。知識にしろ空腹にしろ、飢えを知らないことはもしかしたらとても不幸なことなのではないのかとふと思い、余りにも与えられ過ぎているかのような現代に不安を感じてしまう。


 「自然というものは、自分自身の姿をたのしむために、気違いじみた力ずくの荒業は必要としないのだ」(10103行)。
 だが人は力ずくで自然を自らの楽しみのためにいじくり回した。経済とか発展とか効率とか、時には正義であるとか威信などの言葉を弄してまで・・・。


 メモはまだいくつか残っている。それらはいずれかの機会にここへ引用することにして、ゲーテ「ファウスト」を読破した証として手書きのメモからのいくつかをここへ掲げた。言って見れば「俺は読んだぞ」との自己宣伝であり、言い訳でもある。
 まあそこんところは、他愛ない自慢話の一つとしてご容赦を・・・・。



                          2007.12.7    佐々木利夫


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