法律の改正などで、その変化が特定の個人や法人などに不利益に機能する場合に、一定の要件を定めてその不利益を先延ばしする特例として、激変緩和と称する措置のとられることが多い。
 最近は後期高齢者医療制度でこの措置が設けられた。後期医療制度とは年齢75歳以上となる老人に対する医療保険を、従来の国民健康保険から切り離して独立させようとするシステムである。

 間もなくこの制度の対象になりそうな年齢に足を踏み入れようとしているのだから、もう少しこの制度の意味などについて分かってもいいはずなのだが、国も地方自治体もなかなかきちんとした説明をしていないせいもあり、加えてまだ私に対する適用にはまだ間があるとの怠慢の思いも重なってか、それとも本当に制度自体が難しいせいもあるのか、なかなか十分に理解できないままになっている。

 この制度は基本的には75歳以上の老人の医療保険を、国が50%、75歳未満のいわゆる若者群からの補助40%を前提に、残る10%を75歳以上の老人自らが保険料として負担しようとするものである。もちろんこうした保険料の拠出という負担以外に診療を受けた場合の自己負担などは別に定められているのだが、ここではそのことは触れないでおこう。

 問題となったのはその老人自体が拠出する保険料の負担がどうなるのか、どんな形で支払うのかという点であった。そもそも75歳を区切って保険制度を設けること自体どうかとは思うのだが、ここで話したいのはそのことではない。

 この制度はこの4月から施行された。つまり75歳以上の老人には、後期高齢者医療保険としての保険証が渡され、国民健康保険から切り離されたのである。これまでの市町村を単位とした保険制度から、都道府県単位の広域連合という形で保険収支を考えようとしたことから、市町村単位で行われていた各種の減免や医療サービスなどが基本的に廃止され、結果として後期高齢者の負担が増加するケースが多発している。加えてこれまで扶養家族として子供の社会保険などに自己負担なしで加入していた高齢者にも独立した負担を求めることになった。おまけにその保険料などは年金から天引きすることとされたのである。

 こうした後期高齢者に対する負担の増に対して、半年徴収を猶予するだの数ヶ月増加を据え置くなどの措置がとられている。これがいわゆる激変緩和措置である。
 確かに負担の増加に対してその増加を僅かの期間にしろ延期する、もしくは段階的に移行するなどの措置は、トータルとしてのその者に対する負担を軽減することに違いはないから対象者の負担軽減になるとの意見を誤りだとは言えないだろう。

 だが私にはどうしてもその措置が、見かけは弱者救済の顔をしているもののどこか変だと思えてならないのである。「半年間会費は無料にします」みたいな言い方で分からないままに契約書にはんこを押させながら、半年後からは払えないような高額な支払いを求める詐欺商法のような顔が見え隠れしているような気がしてならないのである。
 当面の負担の軽減という仮面の影に隠れたとんでもない本体をどこかで包み隠そうしているような気がしているのである。

 現在、アメリカが震源地になったサブプライムローン問題が世界を席巻している。比較的影響が少ないといわれた日本だって数兆円にも及ぶ損失が銀行を中心に拡大している。
 サブプライムローンとは低所得者向けの住宅ローンだが、アメリカは無制限と言ってもいいほどに貸付を膨らませ、それを証券化して世界中に売りさばいた。土地神話みたいに払えなくなったらローンで建てた住宅を売れば借金を返してお釣りがでるみたいな話で、しかもその住宅以外の担保を考慮することなく貸し付けた。

 そうした貸付けとしての証券の担保力が単なる神話にしか過ぎないと分かってきて、その証券に投資した世界中の金融機関がパニック状態になっている。それもこれも、借金は払わなくてもいいような神話に踊らされたローンの借入者の甘さであり、その証券化されたあぶくのような貸付金に資産価値を信じた金融機関の踊りの結果でもある。

 甘い話には裏があることを人は何度も経験しただろうに、それが身につくことはなかった。そしてそうした甘い話を次の人間にも信じさせようとして更に甘い衣を着せた。

 だから私はこの「激変緩和措置」と呼ばれる様々は、結果として真実を隠蔽する甘い衣になっているのではないかと思うのである。そしてそうした甘い衣への隠蔽は決して見えるような形をとることはない。苦い薬であることをどこかに小さく書いておいて、その書いてあることの了解を求めるためにその外側を甘く包んでいる恐れはないだろうかと思うのである。
 そしてやがて甘さが苦さに変わったことに人々が気づいたとき、高利貸はその証文を高く振りかざして「お前は苦いことを十分に納得してこの証文にはんこを押したのだろう」とほくそ笑むことができるという寸法である。

 以前ここに、「朝三暮四」(別稿参照)について書いたことがある。朝三つ、暮れ四つの餌という飼い主からの提言に不満を抱いた猿に、朝四つ、暮れ三つと言い換えることで納得させたという、どちらかと言えば目先に囚われた猿の浅知恵を笑うような物語である。私はその物語に猿のほうが正しい選択をしたのではないかと結論付けたのだが、この激変緩和と呼ばれる様々の措置の背景にはこの寓話よりも更に苛酷な朝四つ、暮れ二つ、更には朝五つ、暮れはゼロというまでの意味などが隠されている場合もあるのではないかとすら思えるのである。
  そしてつくづく思うのである。つまるところそうした目先の安易さに妥協してしまったり了解してしまって、肝心な本質を見据える努力をないがしろにしてしまうと、我々は猿以下の存在になってしまうのではないだろうかと・・・。




                          2008.5.20    佐々木利夫


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激変緩和措置