何か都合の悪い事態が発覚すると、政府も自治体も企業もこぞってインターネットへの公開を約束するような風潮が最近とみに多くなってきた。確かにインターネットは理屈の上では読者の制限のない無条件公開になっていることに疑いはない。誤解を承知で大雑把に言ってしまえば、全世界への無制限公開になるのかも知れない。
 だがそれで本当に公開の方法としていいのだろうかと最近気になってきている。

 私自身こうしてホームページに独断のエッセイや写真などを発表しており、訪問者に特別なキーワードや暗証番号などの資格を求めているわけではないから、「世界に向けて発信している」などと大見得切ったとしてもあながち間違いだとは言えないだろう。

 それはそうかも知れないけれど、情報を公開することとその内容を国民に知らせることとはまるで違うのではないかと思えて仕方がないのである。
 そしてその中でも特に気になるのが、なぜかマスコミそのものがそうしたネットでの公開そのものに国民周知が図られたと了解してしまっているように見えることである。

 インターネットはインターネット環境を持っている者がインターネットに接続して始めて情報に接することができるものである。つまり、ある程度の性能を持ったパソコンを所有し、接続業者(いわゆるプロバイダー)と継続的な接続契約を交わして初めてインターネット環境が整ったと言えるのである。しかもこれだけではインターネットに接続できるという状態に止まっているのみであって、パソコンの電源を入れたからと言ってインターネットの情報が勝手にパソコンに飛び込んでくるものではない。

 インターネットにはどのくらいの情報が飛び交っているのだろうか。発信者というベースで数えたって、日記風のブログなども含めると一説には数億とも言われている。
 そうした無限とも言えるような情報の中から、自分の欲しい情報を見つけることができて始めてインターネットはその効果を発揮するのである。必要な情報へ届いてこそのインターネットなのである。

 ところがこの必要な情報へ到達することが現実にはとても難しいのである。それなり当てはまるだろうキーワードを想定して検索エンジンの窓口へ入力するのだが、下手をすると数千件、数万件の該当する項目がパソコンの画面に並ぶのである。検索方法にも色々あるから更に絞り込むことは可能なのだが、それでも目的の情報に到達するのは至難の業である。
 もちろん必要とするホームページのアドレスが最初から分かっているときは、そのアドレスを例えばインターネット・エクスプローラー(マイクロソフト社が開発したホームページなどを表示する画面)のアドレス欄に入力することでダイレクトに到達することができる。

 だがそのアドレスは英語の小文字の羅列であり、小さな窓へちまちま数十文字(それもほとんど意味のない文字列が多い)ものアドレスを文字も記号も一文字の誤りもなく入力するなど至難の業である。

 そうした状況に加えてここで話題にしている情報と言うのは、パソコンや情報機器に精通した者のみが欲しがっている情報なのではない。向こう三軒両隣、と言ってもそういう人たちを馬鹿にしているのではない、ごく当たり前の主婦や老人などだってそうした情報を必要としているのである。

 マスコミは専門のスタッフを置いて官庁のみならず芸能人の個人的なブログにまで手を伸ばして様々なネタを検索しているから、情報の収集に苦労など感じないかも知れない。そういう人にとっては、例えば官庁や企業へ情報公開の申請書を出し一定の費用を支払って写しを入手し、それを検討するという手間をかけるよりはずっとずっと手軽に情報を得ることができるから、むしろインターネットは情報公開の趣旨に沿っているとすら感じられるかも知れない。

 だからマスコミの多くの報道はこうしたネット上の公開を以って情報公開が満足されたとして了解してしまっているような気がしてならない。それはワイドショーのような番組に限らずNHKのニュース番組などでも同様な傾向を見ることができる。
 私はそれは、ネットの情報に自在にアクセスできる者の身勝手な思い込みではないかと思うのである。

 仮に難行苦行の末に必要な情報を掲載している官庁や企業のホームページにたどり着いたとしよう。そこで満足できるかといえば決してそうではない。そこは一般的にはホームページの入り口のページであり、そのトップページから必要な情報が書かれている各論のページへは更に別の手続きが必要になってくるのである。

 トップページはその官庁なり企業の顔である。その画面には様々な技工を凝らされたデザインや文字などが、訪問者のご機嫌をとるために工夫されている。それは多くの場合官庁なら業務案内であり、企業ならば宣伝である。そうした官庁や企業を思惑を乗り越えて、並んでいる文字列の中から(少なくともあんまり公開したくないであろう)情報を掲載したページの入り口を探し出さなければならないのである。
 そしてその入り口とて情報を得たい者が抱いている暗黙のキーワードやタイトルとは違っている場合が多いのである。「お問い合わせコーナー」、「ご相談コーナー」、「〇〇製品について」、「情報公開をお望みの方へ」、「業務案内」などのタイトルから更に必要なページへとつながっているものなどなど、ホームページの数だけ必要なコーナーへたどり着く道筋もまた多様に存在している。
 そうした多様さを無視したまま「公開しています」と胸を張るのはどこか変ではないだろうか。

 最近フィブリノーゲンという止血剤を投与された患者が、それが原因でC型肝炎に罹患したとして政府や製剤メーカーを訴え裁判で和解が成立した事案があった。
 その後、術後の縫合などに利用したフィブリン糊と称する薬剤にも同様の問題点が指摘され、患者の救済が叫ばれている。厚生省はこの薬剤を使った病院を公表するようにメーカーを指導するとの見解を発表したので、私個人としてはその情報が必要ではなかったのだが、試しにその公表状況へたどり着けるかどうか調べてみることにした。

 とは言うもののどうやったら情報に行き着くのかその情報がない。それで「フィブリン 糊」の二つのキーワードで検索してみたが、厚生省の公開すると発表した新聞記事はニュースとして見つけることができたものの、肝心の公開がどうなっているのかについては見当たらないのである。
 と言うよりは、「フィブリン糊」でヒット(検索で見つかったこの言葉を含むホームページの総件数)が実になんと約205千件にも及んだのである。20万件ものタイトルの中には私の必要とする情報があるのかも知れないが、それをいちいち手探りで探し出していくことなど不可能である。

 それでこの検索方法は諦めることにして別の方法を探すことにした。新聞記事をいくつか検索しているうちにどうやら特定の製薬メーカーの名称が浮かんできた。そこでこのメーカーのホームページへ向かい、色々書かれている文字列の中からC型肝炎の患者のデータ418例が公開されていることが分かった。だがPDFのソフトをインストールしなければならず、仮にインストールしてみることができたとしても、その症例は「血清肝炎、HBs抗体陽性」だの「非A非B型肝炎、HCV抗体陽性」などとなんのことだか分からない文字で綴られており、しかも患者の地域は都道府県単位なのである。

 恐らく情報が欲しい人は「私が投与された可能性をチエックしたい」のだと思うのである。それがこの有様ではその情報に「私」を結びつけることなど不可能である。
 しかもこの情報は裁判になったフィブリノーゲンのものであって、私が探そうとしているフィブリン糊のものではない。そのホームページにはサイト内検索(その企業の発表してるホームページ内の情報をキーワードで探すシステム)が設けられていたので、「フイブリン糊」を入力してみた。

 なんと回答は「No document matching your query」ときた。なんのことはない情報がないということであり、ご丁寧にもフイブリンも糊も単独でも該当がないと英語での回答である。検索相手は外国人が多いのかも知れないけれど、英語であっさりと「ありません」はいささか失礼ではないだろうか。
 検索で見つからない原因は私にもあった。「フィブリン」を「フイブリン」とイの字を大文字で入力したせいもある。「フィブリン」では4件がヒットしたけれど、それでもこの程度の文字検索の融通性も企業は考えていないのだろうか。

 しかも、しかもである。ヒットした4件は私の欲しいと思う情報とはまるで無関係であった。4件のうち一番新しい情報は「tue,09,oct 2007.15:19:05」、つまりこれも分かりにくい日付だが昨年の10月9日付けの文章で、外国との交渉内容らしきものであった。

 けっこう苦労しての模索だったのだが、結局私の望む情報は見当たらないままだった。まだ公開の準備中なのかも知れないが、今後どうするか、いつごろまでに公開できるのか、場合によっては現在作業中とでも書いてあれば少なくとも企業がそのための努力をしていることだけでも分かるのだが、私の欲しい情報の片鱗すらも見当たらなかったのである。

 インターネットでの公開は確かに公開になるのかも知れないけれど、それは「国民への公開」と言う視点から見るならば決して公開にはなっていないのではないだろうかと、私は自らの検索能力の乏しさを棚に上げつつ思ってしまったのである。

 インターネットは確かに便利な側面を持つことは否定できない。私のホームページへだって月に5千件を超える訪問者がいることも、いわゆる検索エンジンと称する情報検索のシステムがそれなり充実しているからなのだろう。
 だがインターネット機能を持つパソコンを保有し、接続業者と契約し、検索エンジンを駆使して多数の情報の中から目的地へ到達できる者の数は、決して「国民」と呼べるほどの多数にはならないのではないかと思うのである。

 どうすればきちんと国民に届く情報網を構築できるかは必ずしも理解できてはいないのだが、それでも例えば「ドロボー → 110番」だとか「火事 → 119番」みたいな問題発生と解決へ向けた助言や情報提供を扱う手軽な全国組織を作る方向へと向かうべきなのではないのだろうか。
 荒唐無稽な話だが、以前この場で国家御用聞き論を展開したことがある(別稿「御用聞きとしての国?」参照17年発表)。残留農薬や食中毒などの食品への問題、車やストーブやベッドなどの製造物による事故などへの疑問などなど、それらの様々は官庁や企業にとってみればいわゆる「クレーム」の範疇に入るのかも知れない。だがどこかで一元管理するようなシステムを構築していかないと、まさに「クレーム処理」といった内輪で解決するような流れの中に国民を巻き込むだけで、大切な情報が苦情という狭い閉鎖された観念の中に埋没されてしまうような気がしてならないのである。



                          2008.2.20    佐々木利夫


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