日本が肩書き社会であることについては、これまでそれほどの違和感は感じなかったと言ってよい。だが最近のテレビニュースを見ながら、肩書きってのはここまでつけなければ世間に通用しないのかなと複雑な気持ちになった。

 それは、ロス疑惑とされる事件で妻を殺害したとして夫が逮捕され、最高裁まで審理された結果無罪が確定したにもかかわらずその男をアメリカ政府が逮捕した事件に対する報道である。この事件の内容については既に先週発表しているので(別稿「いま司法が面白い(その2)」参照)ここでは触れない。

 その事件の報道に当たって逮捕された男に「元社長」なる肩書きをつけていたのがどうにも気になってしまった。その表現が誤りだと指摘したいのではない。確かに事件の起きた1981年当時、彼は自分の経営する会社の社長であった。だが今はその会社そのものがなくなっており、その他に現在彼自身が経営する会社はないから現社長ではない。だから「元社長」と表示したんだからそれでいいではないかとマスコミは言うかも知れない。なるほど嫌疑を受けていた当時彼は会社社長だったのだからそうした意味で「元社長」の肩書きを誤りだとは言えないだろう。

 しかし、彼を「元社長」と表示することに何の意味があるのだろうと考えさせられたのである。例えば国会議員が国会議員であった当時に国会議員の資格であるとか権力などを利用して犯罪を犯したのならば、たとえ彼が国会議員であることを辞めた後であったとしても、その事件の経過などを報道するときに彼を「元国会議員」と呼ぶことには何の不自然さも感じない。まさに「元国会議員」が「国会議員」であるときに「国会議員」たる地位で犯した犯罪だったからである。
 またかつて国会議員という特別な地位にあった者である場合も、その地位そのものが一種の社会的な認知度を保っており、場合によっては国会議員であったことの影響力を現在でも保持している可能性がないではないから、そうした者の呼称としても「元国会議員」の肩書きをつけることに特に違和感は感じない。

 だが「元社長」には何のイメージも湧いてこないと思うのである。「元社長」の肩書きをつけたところで特定の意味なり印象が何一つついてこないと思うからである。「社長」は単なる会社のトップであることの呼び名に過ぎない。誰でも彼でも社長になれるわけではないかも知れないけれど、「元高校生」、「元大学生」、「元会社員」などの呼称とまるで違わない、単なる過去の事実の表現に過ぎないではないかと思えてならないのである。

 私にはこのロス疑惑と呼ばれる事件の内容と被疑者が「元社長」であったこととがどうしても関連しているとは思えないのである。事件当時の著名な法人の社長が社長であることに関連して起こした事件であるなら、たとえ社長を辞した後でも「元社長」の肩書きをつけることには何の不自然さもないだろうけれど、それが本件ではどう考えてもつながらないと思えるからである。

 しかもそうした「元社長」の肩書きが、テレビ局一社に止まらず、マスコミ全社、そしてNHKにまで広がってしまっていることに、どうしても不自然さが感じられてならないのである。

 そうした思いでテレビを見ていると、様々な番組に出演する人たちの多くに、いかに多様な肩書きがついていることかと改めて驚きさえ感じてしまうほどである。
 そうした肩書きの気になる例の一つに「研究家」と言うのがある。ある人を紹介するときに、「料理学校を経営されている〇〇さんです」だとか、「××地方の郷土史を熱心に研究している△△さんです」などと表現することには何の抵抗もない。だがそれを「料理研究家」だとか「郷土史研究家」などと、報道する側がもっともらしく表現し、それについて紹介された側もそのことを当然のような顔つきで受け止め、薀蓄を傾けながら解説し始めるような姿にどうも気色の悪いものを感じてしまうのである。

 コラムニストだとかエッセイストなどの呼称も同様である。何をコラムと呼ぶのか、どういうスタイルをエッセイと呼んでいいのか、その辺は実は私にも分からない。ただ少なくともそれを職業にし、それで飯を食っているのだとすれば、少なくとも自称にしろコラムニストなどと名づけることはそれはそれで一つの職業名としていいのかも知れない。だが趣味や興味などでやっているいることどもに「〇〇家」などと呼びかけ、呼ばれることを許容しているのはどこかしっくりこないものがある。

 今こそそうした機会が減ってきているのでそんなにお目にかかることも少なくなったけれど、かつて職業柄名刺交換が日常みたいだった時代に、裏に溢れるほどの肩書きを刷り込んだ名刺をいくつか貰った記憶がある。町内会やら親睦会や同窓会などの役員であることなどを事細かに印刷してある名刺である。

 人はどこかで肩書きに馴らされてしまっているのだろうか。肩書きがないと身ぐるみ剥がされたようでその無防備さに耐えられないような気持ちになってしまうのだろうか。そしてそれは呼ばれる側を越えて呼ぶ側にもどこか落ち着かないような気持ちを惹き起こさせてしまうのだろうか。

 税理士としては現役であるけれど、私も公務員として税の職場を去ってからもう10年になる。年に何度かいわゆるOBとしての会合がある。それも元の職場での様々なセクションに対応していくつかのグループが存在しているのでそのグループの数だけの懇親の場でもある。だからその席は先輩、同輩、後輩の入り混じる場でもある。同輩というのは必然的に数が少ないから、周りのほとんどは先輩か後輩と言うことになる。

 先輩ならば少なくとも私よりも以前に退職、つまり10年以上も前に退職した元上司と言うことになる。そうした先輩の全部に必ずしも直接部下として使われていたわけではないけれど、共通な話題ということになると同じ仕事をした時のことが中心になりやすい。だから対話の形式は必然的に上司と部下と言う形になってしまうのかも知れない。まあ互いに先輩後輩の仲なのだし、当時のみならず今だって先輩は先輩なのだからそこに自ずと長幼の序もあることだしそれなり話しを合わせているけれど、昔の課長が職場を離れた今でも課長の口調そのままと言うのは、昔の肩書きに今でもしがみついているような感じがしてどこかしっくりこないものがある。

 名刺の役割はどこにあるのか、そして日本におけるような名刺の使われ方が諸外国でも共通した意味を持っているのかどうか、その辺のことは必ずしも理解してはいないのだが、肩書きがないと名刺を作りにくい風潮はどこか私自身にも残っているような気がしている。
 恐らくそうした風潮がこのロス疑惑でロス市警に逮捕された男の事件を報道するときに、「元社長」の肩書きをつけないことには落ち着きが悪いような状況を誘発したのかも知れない。

 肩書き社会の風潮は人に肩書きをつけて安心させてしまうだけでなく、逆に肩書きのない人を落ち着かなくさせているのかも知れない。そして肩書きをつけることで人は別の顔を持つようになるのだと日本の肩書き文化は教えているのかも知れない。たとえその顔が「虚」にしか過ぎないものだとしても・・・。



                                     2008.10.9   佐々木利夫


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肩書き社会の虚