「かわいい」が日本語や日本人をダメにしていくのではないか、なんて知ったかぶりをここで発表したのはつい最近のことである(別稿「『かわいい』と『美しい』と」参照)。
 その考えが間違っているとは必ずしも思っていないのだが、相変わらずテレビで若い女の子のみならず子供たちまでが「かわいい、かわいい」と連発している姿を見て、「待てよ、少し視点を変えなければならないのかな」と感じたことがあった。

 それはあまりにも「かわいい」が連発され過ぎているような気がしたからである。もしかしたらそうした連発は、「かわいい」以外の表現する言葉を知らない、いわゆる語彙の貧弱さによるものなのかも知れない。しかしそれにしても居並ぶ女の子や子供たちがこぞって「かわいい」以外の言葉を発しない状況と言うのはやはりどこか気になるものがある。

 それで感じたのが、もしかしたら「かわいい」というのは、「美しい」の簡略された表現だとか、語彙の貧困などと言うような日本語の衰退によるものではなく、もっと別に「無関心さ」を示しているのかも知れないと思ったのである。
 つまり「かわいい」は単なる情緒や感情の表現ではなく、もっと別の意味、具体的に言うならその「かわいい」と表現される対象物の持ち主に対するお世辞であるとか、社交的儀礼に過ぎないのではないだろうかと思ってしまったのである。

 「かわいい」は例えば人形だとか犬や猫などの所有物に対する評価、または親の保護下にある子供などのように従属下にあると思われるような対象物に対する評価である。そしてその「かわいい」と言う意味はその対象物を卑下しているのではなく、むしろ賞賛する場合に使うであろうことは世の中の共通的な感覚として普遍化していると理解していいだろう。
 だとするなら、「かわいい」と言われたとき、その対象とされている物の持ち主は、その「かわいい」を褒め言葉として受け取るだろうと言うことである。
 ならば「かわいい」とさえ言っておけば、とりあえずその相手との間でコミュニケーションが破壊される恐れはないことになる。

 最近は若い人を中心に争いを避ける風潮が高まっているという。そのことは日本古来からの以心伝心が機能しなくなっている事実を示しているのかも知れないけれど、逆に自分自身が傷つきたくないと思う気持ちがそうさせているような感じのしないでもない。そうして他者との争いを避けるための方策として付き合い方に距離を置くことが日常化してきている。

 他者を対立者とするのではなく、だからと言って親密な味方とするわけでもない。どつちつかずの中途半端な位置に相手も、そして自分も置き、そうした着かず離れずの中に埋没することで一種の安定感を得ようとしているのかも知れない。

 そうした時に便利な言葉としてこの「かわいい」が定着してきたのではないだろうか。だからなんでもかんでも「かわいい」が連発され、その言葉に気持ちが入らなくなってきているのではないだろうか。
 こうした意識が私の中に入り込んできた背景には、「かわいい」が連発される対象が必ずしも「私にとってかわいい」とは思えないケースが多くなってきたような気がしているからである。

 もちろん、「かわいい」は主観的な意思の表現である。だからある人にとってその対象が「かわいい」と感じたとしても、それが万古不易の定義になるわけではない。だから「かわいい」か、「かわいくない」か、はたまた「なんとも感じない」かはそれぞれ個々の人たちの自分なりの判断だということになるだろう。
 そのことを否定したいとは思わないけれど、例えばテレビなどに出てきた動物に対して、同時にテレビに映っている女子のたちが、一人残らずと言ってもいいくらい「かわいい」を連発し、それ以外の言葉を発しないのはどこか変だと思えて仕方がないのである。私が「かわいい」と思わないからと言ってそのことを押し付けるつもりはないけれど、「全員一致は間違いの素」みたいな気がしてならないのである。

 適当に他者と歩調を合わせて「かわいい」と言っておけばとりあえず揉めないですむ、異端者として排斥されないですむ、そうした感情が「かわいい」の連発に潜んでいるのではないだろうか。だから連発される「かわいい」は、決してその対象物が「かわいい」から発せられているのではなく、そう言っておけばとりあえず他者とのどっちつかずの空間が維持されるという、それだけが目的で発せられているのではないだろうかと思えるのである。
 だから「かわいい」は社交的儀礼による表現であって、その対象が「かわいい」か「かわいくない」かとはまるで無関係な次元から発せられているように思えてしまうのである。

 つい最近、子供たちが農家の作った野菜を収穫する場面を映したテレビを見た。採りたてのキュウリを口いっぱい、話もできないほど口の中にぎゅうぎゅうに詰め込んで、そして「おいしい」と言っていた。その子も、隣の子も、テレビに映る全員が申し合わせたように「おいしい」を連発していた。

 そのキュウリが不味いとは思わないけれど、そんな口も聞けないような頬張った状態で「本当においしさなんて分かるものか」と私は思い、「おいしい」の連発の中に「かわいい」と同じような意味をまざまざと感じたのである。そして思ったのである。「あぁ、この子供たちは嘘を言っている、間接的にせよ嘘を言わされている・・・」と。

 「かわいい」も「おいしい」も、共に重宝な言葉である。だがその重宝さに慣れてしまうと、大切な気持ちがその言葉から失われてしまう恐れがある。慣用句と呼ばれる多くがそうした運命を辿ってきたんだし、それが「言葉」そのものの持つ宿命なのだと言われればそれまでの話である。
 ただ「かわいい」も「おいしい」も、とても素敵な言葉である。どっちつかずの慣用化で、こうした言葉の持つ大切な味わいが雲散霧消してしまうのではないか、慣用化はその言葉の持つ大切な部分をも亡くしてしまうのではないか、そうした危惧を私はまさに感じているのである。



                                     2008.8.20    佐々木利夫


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「かわいい」再考