標題の8月15日とは昭和20年に日本が太平洋戦争に負けたと宣言した日の意味である。その日から今年で63年になるが、いまさら二ヶ月も過ぎてからこの日をテーマにして書こうと思いついたのは、最近「満州の『8月15日』」(田上洋子編、)と言う本に触れる機会があり、改めてこの日を私自身の中に問いかけてみようかと思いついたからである。

 戦争についてはこれまでも何回もここへ書いた。それは例えば広島・長崎につながるものであったり、東京裁判や真珠湾に連なる感想であった。そうした意味では8.15については何度もここへ発表してきたし、これからも同じように繰り返すことも多いだろうから今は触れない。

 ただこれまでの8.15は、あくまでも「日本国内の8.15」でしかなかった。私にとってみれば、その日はまだ5歳だったし、おまけに北海道に田舎町に住んでいての敗戦の経験だったから、玉音放送も含めて記憶にないのはむしろ当然のことかも知れない。なにしろ父の招集(無事に帰還して86歳まで生きた)さえも記憶にないくらいだし、戦争の記憶といえばひもじさが真っ先に浮かんでくる程度だからである。

 だが8.15は何も日本だけのことではなかった。広島・長崎の8.15も、B29によって火の海に化した東京大空襲も、住民の半分以上が死んだといわれる沖縄戦も、それはそれで8.15に結びつくすさまじい事実であったことを理解できないではない。それでもそれは日本国内の8.15であった。知識として日本の占領地域が満州から遥かニューギニアまでの太平洋上に連なる多くの島々を含む広大な領域にまたがっていたことを知らないではなかった。それでも8.15は沖縄戦と原爆投下を契機とする日本国内の歴史的な一つの事実として私の記憶の中に封印されていたことを否定出来ないでいる。

 私はまだ独身の頃に稚内税務署に勤務していたことがある。確かに戦争のことなど片鱗もない毎日の生活だった。だが署の裏山は歩いて10分ほどのところが公園になっていて、昼飯を食ったり、散歩したり、稚内港や利尻・礼文を結ぶ連絡船の景色などを眺めたりの平穏な寮生活だった。
 その当時、稚内にはまだ米軍の基地があり、日常的に多くの兵隊やその家族の姿を見る機会もなくはなかった(別稿「私のキューバ危機」参照)。

 稚内公園には私が勤務していた昭和38年に建てられた「氷雪の門」と題する高さ8メートルほどの二本の柱とそれに挟まれた2〜3メートルほどの女性像(本郷新作)のモニュメントがあり、その傍らに「さようなら、さようなら」と刻まれた「九人の乙女の碑」が建っていた。その石碑は敗戦そしてソ連の侵攻を目前に樺太で自決した女性の電話交換手を慰霊するものであった。その石碑を私は確かに眺め、裏側に刻まれた碑文を読んだはずである。それは彼女たちにも私たちと同じ8.15があったことを語っていたのだし、氷雪の像は遠く樺太を背にして彼の地にも8.15があったことを伝えていた。その正面に立って私は何度となく、遠い樺太を思いそして天気が良くて見通しのきく季節には洋上遥かに樺太の島影を見たことすらあったはずである。

 それにもかかわらず、氷雪の像はあくまでも私にとっては公園に立っている単なるモニュメント、特に内容を深く考えることのない青銅の彫像でしかなかったし、乙女の石碑はかつてそんなことがあったのだと思うだけの存在でしかなかった。

 稚内は岬の町である。しかもノシャップ岬と呼ばれる半島の湾側に発達した片側だけの町である。そんな狭い町だから、港も税務署から歩いて10分くらいのところにあった(現在の税務署は移転している)。そこに「北防波堤」と呼ばれる連絡船の発着場がある。大きな石造りの海側へ半分覆いかぶさるように作られた巨大な半アータ型のドームである。利尻、礼文へはこの岸壁を利用する。島へは仕事の関係もあって何度か利用したことがある。そしてその岸壁が実はかつての樺太航路の岸壁であったことも私は知識としては知っていた。そこまで身近に材料がありながら、それでも樺太は私とは無縁の単なる知識としての異国の地でしかなかった。

 そして最近「満州の8月15日」を読んだ。この本は満州の鞍山(あんざん)にあった昭和鉄鋼所で働く日本人技術者とその家族が見た敗戦からの記録である。そして気づいたのは戦争は決して8月15日に終わったのではないことであった。敗戦の混乱、引き揚げに間に合ったもの、抑留されたもの、現地で結婚し日本から見放されたような扱いを受けた女性、そして8月15日を過ぎてもなお続いた数多くの死・・・、更には日本に引き揚げてからも同国人の中にあって差別と貧困に喘いでいた多くの人たちの存在であった。
 それはやがて残留邦人や中国人孤児へと続く、今まさに目の前に存在している問題でもあったのである。

 人は忘れる。忘れることは人の天性である、もしかしたら忘れることなくして人は生き続けることなどできなかったかも知れない。それでもなお語り継いでいくことが残された者の役割かも知れないと思うことがある。朝日新聞は毎月第三月曜日を「語りつぐ戦争」と題して読者からの投稿を特集してる。戦後63年は多くの人たちに、戦争そのものを風化させてきた。日清日露も遠くなった。事実はいつか歴史へと変わり、語り継ぐ人の姿もなくなっていく。
 「戦争は人間の最も愚かしい行為である」と、人は何度繰り返してきただろうか。それでもなお、せめては8.15を歴史としてではなく事実として知っている者としては、その愚かしさを阿呆のようにもせよ繰り返すことの中にその役目を確かめていかなければならないのかも知れない。



                                     2008.9.5    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



8月15日