日本語に「水に流す」との表現がある。五木の子守唄ではないけれど「水は天からもらい水」が日本の地形風土になじんだ表現であり、山がすぐ迫っていて急流が一切を海へと押し流し、後には清らかなせせらぎが蛍を育んでいく環境はまさに論より証拠である。中国の俚諺にも「百年河清を待つ」があるくらいだから、水には汚濁や不純物を浄化する機能があると信じたとしても、直感として誤りではなかっただろう。

 そうした思いはいつか日本人の心に検証を必要としない事実として染みこんでいった。ところが最近はまさにこの「検証のないままに信じること」が逆用されることで、我々の生活を脅かされるようになってきている。
 どんな汚物も川へ流すことできれいになると人は信じた。例えば我々の排泄物の後始末についても、そうした場所を厠(かわや・川屋、つまり川の上に小屋掛けした建物)と呼ぶほどにも水の流れは生活の中に密着してきた。

 大量の水が汚染を薄めてきたのは事実だろうし、その汚染を川に住む生物などが浄化してきたのも事実であろう。川は時を経ずして海へとつながり、希釈され生態系で浄化された水はやがて無害となり水蒸気として更に蒸留され山の斜面で雨となって川へと戻る、そうした浄化のシステムの中で我々の先祖はすべてを水に流す生活をしてきた。

 だがそうした当たり前と思われた現象が、いつしか通用しないような時代になった。大気汚染や水質汚染は汚染のままに雨を汚し川を汚し海をも汚染し続けるようになり、生態系はそれを浄化しきれなくなってきた。
 そうなっても人は汚染は希釈されることで無に帰するのだと思い込もうとし、そしてそれを無反省、無批判に実践し続けた。公害の発祥が遠く鉱山などからの鉱業排水によるものだった例がそのことを如実に示している。

 そうした教訓は私たちは事実として経験してきたはずである。その事実を見、聞き、そして多くの人々が味わってきたはずであった。だがそうした汚染希釈の哲学は、単に水に止まらなかった。我々自身が目の前からとりあえず汚いものが消えると言うマジックに幻惑されてゴミの山を築いてきたのもその例である。

 最近の話題は食の安全である。昨年は苫小牧の食肉業者が、牛肉100%と称するひき肉の中に豚肉や鶏肉に限らず内蔵や血液などまでありとあらゆる牛肉以外の材料を混ぜ込んで販売するという事件が発覚した。恐らく最初は「少しくらいなら混ぜても分からないだろう」との思いだったのだろうがそれはいつかとんでもない混ぜかたにまで発展してしまった。

 違法ではないのだろうが、スーパーでも消費期限の迫ってきた食品を、同じ商品の消費期限にまだ余裕のある商品と一緒にしかも最前列に陳列して販売するケースがある。これだって消費期限が迫っていることを表示した上での販売ではないから、恐らくついうっかりと目の前の手近な商品を買い物カゴに入れてしまうという消費者の無意識の行動を利用した一種の混ぜ込みによる販売方法であろう。

 現在、食に関して最も話題になっているのは中国製の毒入りギョーザ事件であろう。ギョーザの包装や製品に日本では使われていない毒性の強い農薬が検出された事件である。製品として中国から輸入されたものであるが、中国、日本とも互いに自国での混入ではないと主張して譲らず、事実関係はいつしか証拠の認定や評価などの問題から国と国との政治がらみみたいな様相を呈してきている。
 これを契機に様々な輸入冷凍食品に対する検査が始まり、その結果微量の場合もあったけれど食品そのものの中に有害で日本での使用が認められていない残留農薬などが数多く発見されてきている。まさに混ぜられると分からない現実がここにあるのである。

 食品には製造元はもとより産地や原材料名や消費期限など細かな表示が求められている。だがそんな情報をいくら重ねても、それが消費者にきちんと理解されなければ表示の意味はないだろうし、その理解を消費者に求めることにも限界があるだろう(別稿「インターネットと情報公開」参照)。
 そして食品の成分表示には解決できないであろう限界がある。例えばかまぼこなどのように複数の原材料を混合して作られる製品などである。

 かまぼこなどは数種類の魚肉などから作られているから原材料の表示は容易だと思うかも知れない。だがその数種類の魚肉だって生魚のまま製造工場に運ばれてくるものばかりではない。漁獲し水揚げしすり身などの原料として加工されたり冷凍された製品が加工場へと運ばれてくるケースも多い。そうした複数の原材料が「かまぼこ」と言う一つの製品として加工されるのである。
 しかも原材料の供給元は世界の各国にまたがっている。そして問題は原材料だけではない。製品にするために混ぜられる調味料や保存料や増量剤、更には粘りや色合いなどを出すためなどの添加剤などなど、一つの製品に含まれる内容物は際限のないものになるのではないだろうか。

 日常的に食べている納豆だが、最近はタレつきのものが多くなった。そのタレにだって見かけ上はダシと醤油の混合物ではあるけれど、その中にどれほどの材料が含まれているかを消費者は知らない。

 それらのすべてについて表示を求めるとしたならば、それはまさに製品の包装には書ききれないくらいの膨大なものになるのではないだろうか。それでも書けと法が命ずるならば別に内訳表を添付して販売することも含めて不可能ではないだろう。だが本当にそれでいいのだろうか。それは単にかまぼこや納豆だけではない。冷凍餃子だって見かけ上はひき肉に野菜を混ぜで衣で包んだものではあるけれど、ひき肉や野菜など構成される物品のすべてについて原産地や成分などの情報を漏れなく表示することなど可能なのだろうか。

 世の中には菓子やファミレスのメニューなどなど、混合された材料による製品は限りなく存在するし、これからも新商品として開発され続けていくことだろう。混ぜることが単品としての性格をどこか希薄にしてしまうことになり、その希薄さはまさに有害などの情報をも希薄化してしまうことになる。

 地球温暖化で論議されている二酸化炭素問題だって、空気と言う世界共通で見かけ上無限に存在するかのように見える大気の中に工場や車などから排出される炭酸ガスを混ぜ込んでしまうことが原因である。炭酸ガスの空気中の濃度が多少増えたところで、二酸化窒素だとか亜硫酸ガスのように人間の呼吸そのものには影響を与えることは少ないだろう。だが二酸化炭素の増加は地球そのものを破壊しようとしている。
 それもこれも、空気中に炭酸ガスを放出したところで大したことはないだろうという、人間のこれまでの驕りの結果である。混ぜても害にはならないとする心、若しくは利益優先の驕り、更には赤信号を皆で渡れば怖くないとする心理などの結果である。

 こうして混ぜることに何の疑問も持たなかったつけが、今や不可逆的とも言える現象を生んでいるのである。それは考えてみれぱ何も食品や空気などのように人間の口から入るものばかりではなかった。サブプライム問題だって、つまるところ「混ぜてしまえば分からないだろう」の世界である。

 アメリカが震源となって世界経済をも揺るがしているサブプライム問題も、回収不能の恐れの高い債権を比較的そうした恐れが少ないと思われる債権に混ぜ込んで、それを証券化して世界の投資家や金融機関へと売りに出したことが原因である。
 もちろんサブプライムローンとは低所得者向けの住宅ローンのことだから、基本的に回収不能の恐れが最初から内在していたことに疑いはない。

 だがそうした潜在していた危険を正常な債権の中に巧妙に紛れ込ませることで、あたかも全体が正常であるかのように見せかけた。買ったほうにもそうした販売者の行為を許したずさんさはあったのだろうが、背景にはあくまでも混ぜることで毒を感じさせないと言う手法にあったことに疑いはない。

 故紙問題もそうである。我が社の紙は古新聞、古雑誌、使用済みダンボールなどの故紙を一定割合使用して作られていますと製紙業界はのたもうた。そしてその紙を使って多くの企業がノートや葉書やコピー用紙などの製品に仕上げ、故紙リサイクルに積極的で地球に優しい企業だとアピールした。だが故紙使用の割合はほんの僅かであり、リサイクルなど名ばかりであることが発覚したのは耳に新しい。

 故紙の割合が少なかったと言う意味では、毒を混ぜるようなイメージとは逆の例ではあるけれど、混ぜることで製品のイメージアップを偽装したという意味ではこれまで述べてきたごまかしと変るところはない。

 混ぜることによって悪が希釈され、場合によっては隠し通すことができるという発想は現代の抜きがたい流れになってしまっているのだろうか。私は科学者じゃないから必ずしもきちんと理解しているわけではないのだが、混ぜることの容易さに対してそこから例えば毒であるとか二酸化炭素であるとか不良債権などを抽出するとか取り除くと言うのはとても難しいのではないだろうか。

 混ぜることで見えなくなる、混ぜると見かけ上無害になる、無害のフリをすることができるという観念は、ゴミの不法投棄なども含めて隠すこと、蓋をすること、透明にすることで他者を欺こうとする行為を生んだ。そうした心理は人間本来の性質の中に絶ちがたく存在しているものなのだろうか。もちろんその中に私自身も含まれてはいるのだが・・・・。



                          2008.3.13    佐々木利夫


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混ぜると消える