今年(2008)のサミット(主要国首脳会議)はG7の日、米、仏、英、独、伊、カナダにロシアを加えたG8により、7月に北海道洞爺湖で開催された。様々なテーマが話題になったことだとは思うけれど、その中の一つに地球温暖化をどうするかもあった。
 これに先立つ1997年、今から11年近く前に京都で開催された「第三回気候変動枠組条約締結国会議」(COP3)において、二酸化炭素など温室効果ガス6種類についての排出を世界的にコントロールするために「京都議定書」なるものを定めた。

 しかしながら画期的な取り決めとの評価はあったものの、発展途上国の自発的な参加が見送られたり、アメリカが受け入れを拒否したりしたことなどから、成立が危ぶまれていた。結果としてはソ連が批准をしたことによってアメリカ抜きのまま2004年にこの議定書は発効している。日本も2002年に国会で承認されている。ただアメリカを始めインド中国などがこの協定に含まれていないことなどから世界的な成果には必ずしも結びつかない状態であった。

 それで今回のサミットではなんらかの効果的な具体策が示されるものとして期待されていたものの、結局各国の利害が複雑に絡み合うこともあって「2050年までに温室効果ガスの排出を半減する目標を世界で共有する」との玉虫色の決着にしかならなかった。

 地球規模の二酸化炭素(CO2)の増加が平均的な地球の温度を上げてきており、そのことによる北極や南極の氷が融け始めただの、太平洋のど真ん中にある小さな島が水没しそうだなど危機が伝えられ、台風やハリケーンなどと言った地球規模の気候変動などが起きているとの専門家の指摘などもあって、日本でも政策的にも各個人単位でもCO2の削減がキャンペーンのように巷を徘徊している。

 その時に必ず使われる言葉が「地球温暖化」である。国際用語でもGlobal warmingであり、これも温暖化と訳されているから世界の共通語になっているのだろう。この言葉が少しずつ人口に膾炙してきた頃にはそれほど違和感は感じなかったのだが、いったん気になってしまうとどうしても感情的に引っかかってしまうようになってしまった。

 それは「地球の気温が上昇している」ことを、「温暖化」と表現していることである。我々は日常的にこの「温暖化」と言う言葉を昔から使ってきた。そうしたとき「温暖化」とは、優しくて穏やかでゆったりとしていて平和でのんびり過ごすことのできる、そんな理想的な環境を意味するものだったはずである。

 「温暖な気候」なんて言葉は、私の知る限り人間に住むための最も理想的な環境を示す言葉ではなかったかと思うのである。
 春風がそよそよと吹いて、木々の緑が鮮やかで、穏やかな日差しが道行く人たちをゆったりと迎えてくれる・・・、少なくともそんな情景が私のイメージする「温暖」であった。

 もちろんそれは私が日本人だからなのかも知れない。熱帯の砂漠地帯や、酷寒が日常である北極地帯などに住んでいる人たちにとっては、そもそも「温暖」という言葉すら存在しないのかも知れない。南北に長く伸びている日本列島に住んでいて、四季の風情を楽しむことのできる環境があり、同時にそれをゆっくりと味わうことのできる言葉や文化があってこそ、始めて「温暖」そのものを理解することができるのかも知れない。

 それはそうなんだけれど、この地球規模の気温上昇を「温暖化」と表現してしまうことは、ことの重大さをどことなく損なってしまっているのではないだろうか。つまり「地球温暖化」というメッセージからは、少しも危機めいた思いが伝わってこないからである。

 地球の気温上昇がどの程度緊迫した危機をもたらそうとしているのか、実感として私に必ずしも伝わってきているわけではない。だが今年の夏は北極点の氷が融けて海水面が現れたなどの話を聞くと、ただ事ではないような気持ちになる。それ以外にも気象変動や海流の変化、魚の生態系の変化など少なくとも目に見える形で影響が現れていることは否定しがたいように思える(別稿「地球の悲鳴」参照)。

 札幌でも今まで無料だったスーパーの買い物袋が今月から有料になった。これまでの買い物袋はむしろ石油資源の有効活用ではなかったかなどの批判もあるようだが、政府も民間も個人もこぞって省エネに向かっている。そのことにとやかく言うつもりはないけれど、なんだか一斉に右向け右みたいな風潮にはいささか抵抗がある。

 環境問題を考えるエコツアーなどと称する団体旅行に人気があるとのことである。こんなことを考えるのはへそ曲がりのせいだとは重々承知してはいるのだが、「エコ」よりもツアー商品としての旅行会社の企画に人々が乗せられているような気のしないでもない。旅行のコースの中には生ゴミから飼料をリサイクルする工場の見学があるそうだが、それとても最近原油高やバイオ燃料製造に伴う穀物相場の上昇がそうしたリサイクル製造の採算向上に影響しているからではないかとさえ勘ぐってしまう。

 家庭での節電も大々的に後押しされているようだが、節電による省エネとはとりもなおさず発電に伴う石炭や石油によるCO2の発生を消費の段階で抑制することを意味する。だとすれば基本的には発電に伴う二酸化炭素の発生が抑制できる方法が見つけられれば、あえて日本中の人間を巻き込まなくても解決する問題である。それを「電気を使うすべての人間が悪い」みたいな方向へとどこか理屈のすり替えが行われているようで後味が悪い。

 最近のアメリカのサブプライム問題に派生して、同時株安が地球規模で世界を巻き込んでいる。金融機関に対する公的資金供給をアメリカ、EU、ロシアを含め多くの国で実施すると宣言したものの、実体経済に及ぼす影響からか株価は乱高下を繰り返し世界の株安には歯止めがかからないようである。そこで経済の専門家の登場である。経済を活性化するには個人消費を高めるしかなく、その手段は買い替え需要の喚起だと言う。家庭にはとりあえず必要なものは完備されているのだから、新しい需要を喚起するためには今使っている機能以上の新しい性能を付け加え、それで新しい消費を呼び起こす起爆剤とする必要があるというものである。
 そして堂々とこんな提言をしていた。「今あるものを捨てさせるような新しい需要を呼び起こす必要がある・・・」と。

 こんな話は私には到底理解できない。省エネに関しても同じような意見を聞いたことがある。省エネの電気製品が開発されている。冷蔵庫、洗濯機、テレビや照明などなど、新しい技術は新しい省エネの製品を生み出している。それを買わせることで省エネに寄与できるのだから、効率の悪い今使っている製品は廃棄した方がいいという理屈である。

 本当にそれでいいのだろうか。「買ったものを最後まで大切に使う」ことは人が生きていくことの基本にある理念なのではないのか。窮乏や貧乏を知っており、駅弁は蓋から食うこと(蓋にひっついている飯粒を先に食べる、つまりもったいないの精神である)や節約を美徳と考えている私の思いなどは、戦後を経験してきた老人の時代に合わない単なる感傷に過ぎないのかも知れないけれど、「捨てさせてまで新しい消費を喚起する」との発想にはどうしてもついていけないものがある。そして日本はそこまで退廃してしまったのだろうかと私は感じ、今の世の中に何とも言えない情けない思いを抱いてしまうのである。

 論点が少しずれてしまったけれど、地球規模の気温上昇は現実の脅威となっていることに疑いはないようである。だとするなら「地球温暖化」などと優しい言葉で表現するのは、人々から危機意識を奪うことになってしまっているのではないだろうか。
 私にはこの「捨てさせてまで新しい需要を喚起する」と言う発想そのものが、地球規模の災厄をどこかで他人事として「飽食」の傍らのお遊び感覚にしてしまっているのではないかとさえ思ってしまうのである。

 今朝の新聞は、スイス南東部にあるディアボレッツァ氷河のこれ以上の融解を少しでも防ごうと今年初めて白いシートで覆ったことを報道していた(10.19朝日)。一体全体世の中どうなっているのだろうか、そしてどこへ行こうとしているのだろうか。



                                     2008.10.19   佐々木利夫


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