俳句にそれほど造詣のないことが一番の原因なのだろうけれど、欲しいと思う気持ちは抱きつつも「歳時記」と呼ばれる本は私の蔵書の中に見当たらない。
 それでも春の季語なんてことを問われたなら、それが江戸を中心とした季節感であって北海道のそれとは違うであろうことを承知の上でも、それなり歳時記と似たようなイメージを抱くことくらいはできるだろう。

 だから春の季語に「落葉」だとか「枯葉」などが出てくることなどないだろうくらいのことは、確信を持って断言できる。
 ところが4月も半ばに近いこの季節、歩きながら事務所へ通勤している私の経験から言うなら、春には落葉のイメージがまとわりついて離れないのである。

 落葉については去年の暮れに「ゴミ」として処分されることへの不自然さをここへ発表した(別稿「落葉の行末」参照)。しかしゴミとして処理され損なった落葉はそのままアスファルトの上へと積もり、更にその上を長い冬の白いヴェールが覆いつくしていった。
 北国の長い冬が過ぎて季節はやがて春になった。少しずつ雪融けが始まって、冬に埋もれていた様々が顔を出すようになり、そして一番最後に路上の落葉が姿を見せ始めたのである。濡れていた落葉はやがて吹く風に乾き、もとの落葉へと戻っていく。

 落葉もいずれは朽ちていくことだろうけれど、アスファルトに積もる落葉は、そんなに簡単に土に戻ることはない。土の中には落葉を土に戻す様々な生物や細菌などが潜んでいるけれど、舗装されたアスファルトではそうした作用の望むべくもないからである。

 シャンソン歌手イヴ・モンタンの歌う「枯葉」なんぞを話題に出せば我が身の老いを改めてさらすことにもなりかねないけれど、風に舞う落ち葉のイメージはどうしたって秋である。少しコートの襟を立てて、鉛色の空にうつむいて木立ちの中を一人で歩いてこその落葉である。あてどない落ち葉の囁きは、よるべない我が身と重ねることのできる数少ない仲間であり、切ない思い出を運んでくる風はやっぱり少し冷たくなければならない。だから落葉の季節は秋でなければならないのである。

 だが今は春である。うららかな日差しがいたるところに芽吹きを誘う新生の季節である。去年の枯葉の隙間から新しい命が萌え出てくるはずの季節である。枯葉はその新しい命を育むため地面を暖めるしとねであり、やがて土に還って新しい命と共生するはずの糧となるべきものである。

 もちろんアスファルトの落葉だって永遠に落葉のままでいるわけではないだろう。いずれ風雨にさらされて長い時の中で崩れてゆき、やがて排水溝の闇へと消えていくことだろう。だがそうした行末が新しい命の育みにつながることなど恐らくないだろうことは、鉄格子のはまった取水口に詰まっているゴミの姿があまりにもはっきりと示している。

 雪融けの下から現れたアスファルトに佇む落ち葉は、どうやってもゴミの姿そのままに無残さをいぎたなく示している。陽光と春風を引き連れた落ち葉のロンドは、「自然を大切に」であるとか「環境に優しい」などのメッセージとは裏腹に、吹き溜まりの中で人間が信じてきたものへの痛烈な批判になっている。物寂しさを超えて哀れともつかぬ人の愚かさを見せつけている。

 落葉は帰るべき土を失った。道からも、公園からも、空き地からさえも土は消された。人が土を消した。だから落葉はどんなに風に狂奔しようとも、自分の安らぎの場を見つけることはできず、朽ちることすらも許されることはなくなった。
 そんな落葉を作り出したのは人間である。土を消し、ぬかるみを消し、水溜りを消して、人はそれを進歩なのだと思おうとした。あれもこれも、人の仕業である。

 アスファルトって、いずれは風化していくものなのだろうか・・・。私はふと、そんなことを考える。



                          2008.4.15    佐々木利夫


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春の落葉