パンドラについては以前ここで発表したことがある(別稿「パンドラの犯した罪」参照)。パンドラの罪は開けるなと命じられていた箱を開けて世界に災厄を撒き散らしてしまったことではなく、むしろ「希望」の存在を残したまま箱の蓋を閉じてしまったことにあるのではないかと提起したのがその概要である。

 パンドラの生い立ちについては上に掲げた別稿を参考にしてもらうことにして、とりあえず「パンドラの箱」と言われているものについて振り返ってみたい。
 パンドラは神から作られた完璧な女としてゼウスから天上の火を盗んだプロメテウスに与えられ、そのプロメテウスから火を受け取った人間エピメーテウスへと更に与えられたものである。

 さて、私の持っている「ギリシア・ローマ神話」(トマス・ブルフィンチ著、大久保博訳、角川文庫、昭和52年)によると、彼女が開けたのは箱ではなく壷だと言うことになっている。しかもその壷は彼女が持ってきたのではなく結婚した相手であるエピメーテウスの家に神から与えられたものとして最初から存在していたのである。物語はこんなふうに展開する。

 「・・・ところでエピメーテウスは家に一つの壷をもっていました。中には有害なものがいっぱいに入っていたのですが、そんなものは人間に新しい住居を作ってやる時には必要がなかったので、壷の中にしまっておいたのです。ところがパンドーラーは強い好奇心にかられて、この壷の中にはいったいなにが入っているのだろうかと考えはじめました。そこである日、壷のふたをそっととって、中をのぞいてしまったのです。するとたちまち中から、不運にも人間にとって苦労の種となるようなものが、ーーたとえば肉体的なものでは痛風だとかリューマチだとか疝痛といったものが、また精神的なものでは嫉妬だとか怨恨だとか復讐といったものが、無数にとびたしてきて、遠く四方八方へと飛び散ってゆきました。パンドーラーはあわててふたをしようしましたが、どうでしょう! 壷の中にあったものはもうみんな飛び出してしまっていました。それでも、ただ一つだけ、壷のそこに残っていたものがありました。それは希望だったのです。ですから私たちが今日みるように、たとえ禍がどんなにはびこるようなことがあっても、希望だけはけっして私たちを見すてるようなことはないのです。」(P38)。

 だがこの著者は次のような別の説も掲げている。

 「しかし別の言い伝えによると、パンドーラーは、人間を祝福するためにゼウスから誠意をもって贈られてきたのだ、というのです。彼女は、結婚の贈り物が入っている箱をもらいましたが、その中には神々から贈られたお祝いの品物が入っていたのです。ところが彼女が不注意にその箱をあけたために、贈り物はみんなとびだしてしまって、希望だけが残ったというのです。この話の方が前の話よりはもっともらしく思われます。なぜなら、希望というものは、たいへん高価な宝石のようなものですから、それが前の話のように、禍という禍がいっぱいつまっているような壷の中に入っていたなどということはありえないことだからです。」(同書P38)。

 私は前回、前者に沿って書いたのであるが、仮に後者が正しいとするならパンドラは世界に災厄を撒き散らした犯人ではないことになり、私は彼女にあらぬ疑いをかけたことになる。彼女が災厄をばらまいたのでないのだとするなら、これだけ重要な事件に触れた物語が他に存在していないことからすると、恐らく災厄は人間社会の中へと神が最初から組み込んでいたのだということになるだろう。
 だとするなら箱を開けたパンドラには何の罪もない。なぜなら箱の中身は神々から人間への大切な祝いの品だったからである。確かに箱はパンドラへの結婚祝いではあるけれど、残された「希望」が人類への贈り物の一つだったとするなら、箱の中味そのものが人類への贈り物だったと考えていいだろう。
 ならばパンドラの罪は一層重いものになるのではないだろうか。前説にはパンドラが散らした災厄の中味が限定的にしろ例示されているけれど、後者は祝いの中味について一切触れていない。

 それではその祝いの品とは一体何だったのだろうか。神が人間に与えた祝いの贈り物とは一体どんなものだったのだろうか。平和か、豊かさか、恵みか、それとも平穏だとか平等、嘘のない世界、幸福、信頼、融和、安心などなど・・・。それを知る術はないけれど、祝いの品とある以上、少なくとも人間にとって幸せと感じられる様々であったことだけは否定できないだろう。

 そうした神が人間に与えたであろう祝いのことごとくは、パンドラが贈り物の箱を開けてしまうというたった一つの不注意のために灰燼に帰すことになってしまったのである。これほどの大きな罪が果たしてあるだろうか。人類にとっての最大の不幸はこのときパンドラによってもたらされたのである。神は二度とその箱も中味も人間に渡そうとはしなかった。

 確かにその箱の中にたった一つ「希望」だけは残されていた。そしてそれが神から人間に贈られたたった一つの贈り物になった。著者トマスはこの「希望」を「高価な宝石」と表現している。それは失われてしまった宝石よりも、何にも増して貴重な贈り物だったという意味でもあろうか。

 だが私にはどうしてもそうは思えないのである。「希望」って奴こそが、人間にとって最も厄介で始末に終えない代物ではないかと思えてならないからである。人は「希望」の中に救いを求めようと奔走する。もしかしたら散逸してしまった多くの神からの祝いの品々の全部を、この「希望」ってやつが包括するほどの大きな意味を持っているかも知れない。それでも私は思う。悲しみや絶望や後悔などなど、人が感ずるもっとも大きな不幸せはこの「希望」が実は架空のものでしかないところから派生しているのではないだろうか。

 人はどんな場合にも「希望」捨てるなと言われ続けてきた。「希望」を持ち続けている限り人はいつか救われるのだとも・・・。
 しかし、平和も平穏も、どれほど多くの人達が「希望」の名の下に願い続けてきたことだろうか。それにもかかわらずその希望が実現することなどなかった。パンドラの話は神話の世界である。神話の時代から人は「希望」に様々を託してきたけれど、現代に至るまでそうした希望が叶ったためしが果たしてどれほどあっただろうか。「希望」はいつも裏切りを生み、その代わりに「絶望」だけを人に与え続けてきたのではないのだろうか。

 パンドラはなまじ箱の底に「希望」を残したことで、人に更に残酷な思いを与えたのではないのだろうか。「希望」などという不確かで得体の知れない幻想を人に残したことで、人は「絶望」と言う新しい災厄に付きまとわれることになってしまったのではないのだろうか。

 「戦争がなくなりますように」みたいな分不相応な望みを持つから裏切られるのであって、「道で10円拾えますように」程度の希望に留めておくことこそが「希望」そのものの絶対的要件なのだと言うのだろうか。

 もしかしたら「希望」に託す人間の願いが大き過ぎたのだろうか。もう少し、「身の丈にあった希望」に留めておけば、そうした裏切りにぶつかることなどなかったのだろうか。「絶望」もまた「希望」の大きさに比例しているのだろうか。そうだとすれば、そもそも「身の丈にあった希望」とは一体何なのだろうか・・・。
 「希望」だけを残した、いやいや「希望」しか残さなかった、「希望」だけを残してしまったパンドラの罪は重く深い・・・。

 そして神は「欲望」との違いもはっきりさせないまま、まるで垂れ流すかのように「希望」と言う言葉や観念だけをばらまいた。それはもしかしたらパンドラの罪ではなく、神の不完全さのなせる業なのかも知れない。「神こそはいつも気まぐれ」だと、人は太古から知っていたはずなのに・・・。



                                     2008.10.15    佐々木利夫


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パンドラの罪再考