鹿児島で19歳の自衛官がタクシー運転手を殺害して逮捕されるという事件があった。未成年なので家庭裁判所での審判が開始されたとのニュースを読んだ(5.27、朝日新聞)。
 その記事からの伝聞ではあるけれど、その19歳がの語ったとされる言葉である。

 「人を殺したらどういう気持ちになるか知りたかった」
 「金をためて海外でボランティアをしたかった」
 「(自衛隊を辞めても)金をためるには空き巣や強盗をすればいいと思った」


 もちろんこんな応答を繰り返している彼に対して、「付添い人は23日、家裁に対して精神鑑定を依頼する意見書を提出した」とも書かれていた。

 この記事を読んで最初に感じたのは、世の中どこか混乱してきているとの思いであった。どんな場合にだって殺人に正当な理由などないとは思うし、それを共感と言ってしまえば言い過ぎになることくらい百も承知ではあるけれど、それでもどこかで「納得できる殺人」みたいな意識が私の中にあり、そうした意識は多くの人の抱く意識と共通しているのではないかと思っている。

 それは殺人を正当化したり同情しようとしたりするのではない。ただ殺人にいたる経過が日常生活からも理解できると言う意味である。そのことを「殺人にもルールがある」とまでは言うまい。
 こうした理解できない犯罪が起きていることについては以前にもここで発表したことがあるけれど(別稿「理解できる殺人、できない殺人」参照)、無差別殺人だとか切断して遺体を遺棄するなどなど、最近はそうした事件がなんだかやたら増えていっているような気がするのは私だけの思い過ごしだろうか。

 動機や殺害の経過などについて理解できる殺人を正当化しようとは思わないけれど、理解できないような殺人が広がっていく現状はどうにも落ち着きが悪く不安になる。
 人が人と付き合っていくと言うこと、家庭だとか仲間だとか社会などの共同体を作って生活していくと言うことは、そこに共通の理解なり常識なりといった基礎となる了解が前提になっているのではないだろうか。だからこそそうした了解事項から外れた行動や思いが表面に出てくると、その了解からの外れる度合が大きくなるほど不安もまた増大していくような気がする。

 もちろんそうした「理解できないこと」をそのことを理由に疎外することは間違いだろう。人は得てして理解できないことは存在しないこととして心の底に押し込めてしまいがちである。
 私の抱く不安みたいな感情も、結局は疎外しようする感情の隙間からはみ出してくる私自身の弱さの表われなのかも知れない。目を閉じることで事実が消えてしまうことなどないと知っていながら、どこかで人は見たくないものは見えない、感じたくないものは感じない、信じたくないものは信じないなどと、感情の入り口を自ら閉ざしてしまうものなのかも知れない。

 そうは言いながらも、「理解」とは詰まるところ「自分が理解する」ことでもある。自分の中にそれを理解するだけの素養が欠けていれば理解もまた覚束ないものになることだろう。
 そうした場面における橋渡しとして「精神鑑定」があるのかも知れないが、それで納得ができるのかと問われれば私の中ではまだ折り合いがついていないのが正直な気持ちである。

 そして次に感じたのが、来年から始まる裁判員制度と精神鑑定の関係であった。私の勝手な思い込みかも知れないけれど、理解しにくい犯罪が増えてきていることに裁判員がどう取り組んでいくのだろうかと思ったのである。理解しにくい犯罪の増加は単なる私の思い過ごしかも知れず、昔から「猟奇事件」などと呼んで世間の耳目を集めるような事件がそれなり発生していたことを否定するつもりはないけれど、それでも精神鑑定と呼ばれる手法が少なくとも裁判の場で検察官、弁護士双方から要求される事例が増えてきていること自体は否定できないのではないだろうか。

 だが精神とは一体何なのだろうか。刑法は行為の違法性と行為者の有責性を刑事罰の基本に据えた。そしてその39条は「心神喪失者は、罰しない」「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する」と定めた。
 裁判員制度は来年の5月から施行される。年内にも候補者が選定されて30万人とも言われる対象者に個別にその通知がなされるとも聞いている。法的に素人の裁判員に死刑のような苛酷な判断を下すことを求めることが果たして妥当するのかとの話題が最近持ち上がっている。そうした論議自体を軽んじるつもりはないけれど、この精神鑑定の分野にだって人の心の中に我々はどこまで入っていけるのだろうかとの思いを強く感じてしまう。

 最高裁は精神鑑定の結果についてはそれなりに尊重する必要がある旨の談話を発表したけれど、そもそも裁判における判断はそうした外部からの影響を排除し、法廷に提出された証拠や陳述などのみを基礎としてなすべきものではなかったのだろうか。
 そうした意味で、法廷に提出された精神鑑定もまた、その採否は裁判官なり裁判員の自由な心証に委ねられてこそ司法の独立としての意味があるのではないだろうか。最高裁の一般的な指導を目くじら立てて裁判への干渉だと批判するつもりはないけれど、どこかで裁判の誘導みたいな意識を感じてしまうことも事実である。

 そうした被告人の心の分野へも裁判員は入っていって、有罪か無罪か、更には量刑を決定しなければならないことになる。なんたって心神喪失の状態の者の犯罪は無罪であり、心神耗弱者ならばその罪を軽減しなければならないのだから・・・。

 裁判員制度は一審のみに限られている。だから仮に誤った判断をしたとしても、控訴や上告の道があるのだから、最終判断は検察や弁護士に任せて高裁、最高裁のプロの裁判官に委ねればいいじゃないかとの意見があるかも知れない。
 しかし、それを認めてしまったら裁判員制度、国民の司法への参加と言う基本的な理念はどこかへすっ飛んでしまうことになるだろう。

 精神鑑定書を前に裁判員は、自らが正常であることをまず自らに納得させなくては、そのページを開くことなどできないのだろうか。
 「私は正常なのか・・・」は、いつも、そしていつの時代にも自分に突きつけられた重い問いかけである。



                              2008.6.5    佐々木利夫

 そして明日このエッセイを発表しようとして準備の最中に、またまたとんでもない事件が持ち上がった。まだ速報の段階なので詳細は不明だが、東京秋葉原で「世の中厭になった。人を殺すために秋葉原に来た。殺すのは誰でもよかった」と称する25歳の男性がサバイバルナイフで通行人を手当たり次第に突き刺し、少なくとも6人が死亡したとのことである。人は生まれてから死ぬまで人だけれど、それは動物としての人でしかない。人格だとか、人らしさだとか、人を人たらしめている何かが理解できないままどんどんと病んできている(5.8午後5時20分)。



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人を殺す気持ち