「失敗は成功のもと・・・」、私たちはこの言葉を幼い頃から何度聞かされてきたことだろう。この言葉はあたかも成功するための前提要件として失敗があるのだと思い込ませるほどにも執拗に語りかけられてきた。
 それにもかかわらず、失敗と成功とは無関係であることを人は何度も己の身に刻んできたはずである。なのに失敗の積み重ねが結局はそれだけのことでしかないことが語り継がれることはなかった。

 それは何故か。当たり前である。この「失敗は成功のもと」とする神話は、成功した者だけからのメッセージだったからである。何度挑戦し、何度失敗し、しかもとうとう成功しなかった者の失敗の歴史など、誰も人に伝えるようなことはなかったからである。いやいや、伝えたくとも伝える手段などどこにも存在しなかったのである。失敗の記録などだれも読んではくれなかっただろうし、失敗が失敗のままに挫折した経歴など、どんなマスコミも伝えようとはしなかったからである。

 それでは「人は失敗から学ぶ」などと、私たちはいつの間に思いこんでしまったのだろうか。私にはむしろ、「人は目先の利害得失しか見えない」ことの方がずっとずっと人間の本質を突いているような気がしている。
 「失敗」という種をいくら植えたところで、それが「成功の果実」を生み出すことなどなかったのではないだろうか。

 成功者は事実として多数存在する。そうした人たちの過去に数多くの失敗があったこともまた事実であろう。しかし、失敗の土壌から成功が生まれてきたと本当に思っていいのだろうか。腐るほどにもたくさんの失敗の山は、結局何の役にも立たない汚物の堆積そのものであり、成功の甘い果実はその汚物の中から実ったのではなく、まるで別の例えば「ひらめき」であるとか「偶然」、あるいは「めぐり合わせ」や「僥倖」などなど、もしかしたらちょっとした「神様の微笑」みたいなものの中から忽然と湧いてきたものなのではないだろうか。

 もし仮に失敗がなんらかの形で成功に寄与するのだとしたなら、それはその人の失敗に対する鈍感さ、失敗を失敗と感じないほどの傲慢さにあるのかも知れない。そうした傲慢さなくして失敗が成功へと登りつめるほどの神通力を持つはずなんかないのではないかと思うのである。
 弱者の一人であることを自認する私にしてみれば、打ち続く失敗の荒地を前にして呆然とたたずむ敗残者の途方に暮れた姿の方が、成功の美しい花びらに囲まれた勝利者の姿よりもずっとずっと多かったのではないかと思えて仕方がないのである。

 だから人は成功の甘い果実を味わえないことを現実のものとして受け入れるために、「当たり前の幸せ」であるとか、「平凡な日常」、そして時に「すっぱいぶどう」(別稿参照)を作り上げてきたのではないだろうか。
 それは決して挫折の悲哀や苦さからの逃避や諦めではなく、成功を味わうことのない日常の中にも十分な自分の居場所があることへの弱者自身が発見した理解だったのではないだろうか。



                                     2008.10.29    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



失敗は成功のもと