親による躾の放棄については先週書いたばかりだが(別稿「躾を放棄する親心」、参照)、どうやらそうした傾向は親ばかりではなく子供を取囲む大人の世界にまで広がってきているようだ。
 気になりだすとなんでもかんでもそこにくっつけてしまうのが私の悪い癖かも知れないけれど、最近の新聞への投書にこんな意見が載っていた。

 「・・・最近、近所の子がボールをゆず畑に入れ、『どうしたら良いでしょうか』と聞いてきた。畑の持ち主は分からない。『ちょっと入ったら』と言うと、急いで拾い『ありがとうございました』とお礼を言われた。先生か家庭のしつけか、行儀の良さに感動した。今の気持ちを忘れず、マナーを守れる大人になって欲しいと後ろ姿を見送った」

 投稿者は子供の行儀の良さに感動したと書いているけれど、私にはどうしてもそんな風には思えなかった。他人の畑の中とは言え子供の目の前にボールが転がっている、それを見ていながら「どうしたらいいでしょうか」と聞くことそのものがどこか変ではないだろうかと思ってしまったのである。他人の畑なのだから、勝手にズカズカ踏み込んで拾ってきても構わないとは思わないけれど、「チョット入って拾うこと」くらい、子ども自身が自分で判断してもいいのではないだろうか。

 しかもこの投稿者は「どうしたらいいか」と聞いてきた子供の行為に感動し、少なくとも自らがその感動の原因になっているかも知れない他人の所有地へ踏み込む不正義な行為を、何の権限もなく子供にそそのかしている状況にまるで気づいていないことも気になったのである。

 私はこの記事で気になったのは、第一に子供が「どうしたらいいか」と聞いた姿に自らの責任の転嫁を大人の顔色をうかがうことで図ろうとするずるさを感じたことであった。その子供がどんな年齢なのかは書いていなかったから分からないけれど、それなり分別のある年齢になっているであろうことは「大人に聞いた」とする文面からも推察できる。つまり、少なくとも他人の土地に許可なく踏み込むことが悪いことだとの認識はあると思われることである。だからこそ「どうしたらいいか」と聞いたのであろう。

 私はそれしきの行為くらい子供だって自分で判断していいのではないかと思ったのである。他人の土地に踏み込んでいくことを当たり前だと感じていないのなら、その後ろめたさを自身の判断で破ることもまた一つの生きていく手段だと思うのである。「悪いこと」の範囲を自分自身で勝手に決めていいのかと問われればそうは断言できないけれど、グレーゾーンたる許容範囲のなかで生きる術を身につけていくこともまた人としての智恵ではないのだろうか。
 だから私はこの子供の発した「どうしたら良いでしょうか」が、大人の顔色をうかがうとてもずるがしこい言葉に思えてしまったのである。

 そして気になった第二点は聞かれた大人の身勝手な思い込みである。この大人は単純に聞かれたこと、つまり善悪の判断を「大人である私にきちんと求めた」ことに対してあっさりと感動しているけれど、本当にそうだろうか。第一、子供から「ありがとう」と感謝されるべきはこの投稿者ではないだろうと思ったのである。「ありがとう」の言葉は言った方も受けたほうも共に錯覚しているのではないだろうか。そしてこの大人は感動する以前に自分が許可を与えた行為に対してまず最初に後ろめたさを感ずべきではなかっただろうか。

 違法と知りつつ畑にこっそり入ることを許可したこと、きちんと畑の持ち主の許可を得てくるよう子供に教えなかったこと、少なくとも子供と一緒に畑の持ち主を探すための努力をしなかったこと、そうした思いが先行してこその大人なのではないだろうか。しかも「ありがとう」との感謝の気持ちを自分のこととして受け取り、あたかも自分が正義を実践したかのような気持ちになっているなどは自惚れもいいところである。

 恐らくその畑は尋ねられた大人にも持ち主が誰だか分からなく、探そうにも近くにそれらしき住宅が見当たらないなど、きちんと許可を得ることが困難な状態にあったのかも知れない。それはそうかも知れないけれど、探すための努力をなんらすることなく、あたかも自分自身がこの畑の持ち主であるかのように振舞ってしまっていることに何にも感じていないで、「ありがとう」の声に舞い上がっている姿がとても変だと感じたのである。

 私はこの投稿者のとった「チョット入ったら」の行動を過ちだと批判したいのではない。恐らくそんなに簡単には所有者が見つかるはずもなく、結果的には「チョット入って拾う」事態になったかも知れない。しかし、投稿者は子供が「礼儀正しく私に許可を求めてきた」その行為だけに感動して、物事の基本的な考え方、つまり子供が大人として生きていくために学ぶべき道筋をすっかり忘れて有頂天になっていることに何ともいえない不自然さを感じたのである。
 そして大人にもまた要求されているであろう他者に対して躾を伝えるべき役割が、親が子供に対処する姿勢と同様に無関心や安易へと伝染していっているのではないかと思ってしまったのである。



                                     2008.12.22    佐々木利夫


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躾放棄の伝染