環境破壊は目に見えるようになってきており現実には待ったなしの状況にあるようだ。だから私も社会が自然保護の方向へ動こうとすることについては大賛成である。
 ただ自然保護と言うイメージには、何となく「自然が大切」という場面だけが余りにも強調され過ぎていて、本当は自然の中に住んでいる人間を大切にしようと言うことが基本にあるべきとの視点が欠けているのではないのだろうかと思えてならない。そしてそうした視点が欠けたままやみくもに走り出しかけている今の時代にどことなくしっくり来ないものを感じている。
 つまり、どこからの批判も許さないような自然保護と言う理念や行動の中に、人間の姿が見えてこないことがどこかとても気がかりなのである。

 地球が人類とは無関係に存在していることについては先日ここで書いたばかりだけれど(別稿「地球温暖化は言葉が変だ」参照)、自然をめぐる議論の様々はそこに人間の存在があってこそ成立する観念なのではないかと思う。

 人とは何かはなかなかどうして厄介な問題ではあるけれど、単純に考えれば「私たちが人として生きていくこと」に関わってくることの全部でもあろう。

 来年早々、アメリカで初めて黒人の大統領が実現する。黒人と言っても開拓の歴史や南北戦争など奴隷に連なる系譜を持つ者から、いわゆる移民によってアメリカ定住に至った者まで様々ルートがあるようであり、次期大統領に選出されたオバマ氏は後者だと聞いた。

 ところでアメリカ大統領に黒人が選ばれたこととは直接無関係な話なのだが、人間の皮膚の色は通常低緯度つまり赤道付近の人種は黒く、緯度が高くなるにしたがって赤褐色や日本人のような黄褐色、そして寒冷地になるにしたがって白人へと変化していくようである。これは人体を紫外線から守るためにメラニン色素を皮下組織で調整したことによる人類進化の結果だと言われている。

 もともと紫外線は人体のみならずどんな生物に対しても有害である。ただ適度な紫外線は成長に必要なビタミンDの生成を促進する役目も持っていることから、その必要度に応じたことが人類の皮膚の色の変化につながっていると考えられている。

 話は少し変わるが、近年オーストラリアで皮膚癌が増加してきていると言われている。その原因の一つに太陽光に含まれる紫外線があげられており、紫外線対策が国民の重要な課題になっていると聞いた。紫外線がどうして最近になって騒がれるようになってきたかについては、例えばオゾンホールの拡大があげられている。
 オゾンホールとは地球の成層圏で大気を覆うように存在しているオゾン(酸素原子が三つ結合したもの。化学記号O3・オースリー)層が、極地(特に南極)を中心に穴を開けたようになってきているこ状態を言う。オゾンは微量な存在にもかかわらず紫外線の大部分を吸収して地球をその影響から守ってくれていると言われているので、そのヴェールに穴が開くと紫外線はまともに地表に到達することになってその影響が心配されると言うことである。

 しかもそのオゾンホールが年々拡大してきており、最近は南極周辺を越えてオーストラリアからニューギニア南部にまで広がってきているそうである。このことはつまり本来自然に防御されてきた紫外線からの保護機能が損なわれてしまう地域が拡大してきていることを意味している。

 人は進化の過程で適度な紫外線に対応した体を作り上げてきた。そのために遺伝的に何万年もの時を要したかも知れないけれど、人は皮膚の色を変えることで地球に生き残る道を模索し続けてきたのである。何代もの淘汰を経て人は苛酷な地球環境に順応することを覚えた。それは世代を超える気の遠くなるような進化の過程でもあった。

 そうした進化を人はあまりにもあっさりと放棄した。移住、戦争、侵略・・・、何と呼ぼうが人は他民族の住む地へと侵攻し続けた。それは開発や文明や保護などに名を借りた正義の衣装をまとってはいたけれど、結局は暴力と財力による支配でしかなかった。

 オーストラリアはもともとアポリジニと呼ばれる原住民が住み着いていた国である。1788年、何万年もの時を経てこの地に順応してきた原住民を押しのけ、イギリスはこの地を侵略し植民地として支配した。そしてオーストラリアは瞬く間に白人の支配する地になった。僅か二百数十年前のことである。

 そしてそれから約二百年、そんな僅かの期間でそこに住み着いた白人は紫外線に耐えられるような皮膚を持つことなどできるはずもなかった。紫外線は日常でも照射し続けているけれど、オゾンホールはその照射を更に増幅する結果を生んだ。強められた紫外線に耐えられない人体は皮膚癌という結果をもたらしはじめた。
 そのことを「自然からの報復」などとは呼ぶまい。自然は報復など少しも考えることなく、何万年も何億年も同じように太陽の回りを回り続けているだけだったのだから。
 オゾンホールの発生や拡大の原因は、一部には反論もあるようだがもともとは自然界に存在してなかった(つまり人間が作り上げた)フロンガスなどがオゾン層を破壊していったからだとも言われている。

 そうした自覚などまるでなかったのかも知れないけれど、侵略と言う行為もまた自然環境に対する人間の逆らいであった。便利になることこそが人が生きていくことの証なのだと、人はいつから思いこむようになってしまったのだろうか。
 地球と呼ばれる自然には、もともと人間など存在しなかったはずであり、そうした不存在の中へと人は順応という形でゆっくりゆっくりと歩みを進めてきたはずである。その「ゆっくりさ」を現代人は進歩や発展などと名づけながら忙しさの中に埋没させようとしている。このまま進んで行くなら、その先に恐らく自然は残るだろうけれど人は、「・・・いない」。



                                     2008.11.28    佐々木利夫


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