春がたけなわになってきた。この季節、事務所を出て自宅に向かう午後6時を過ぎても夕暮れはまだ明るさを残してはいるけれど、朝の出掛けの風景の方がしっかりとした春を知らせてくれる。

 そんな春風に身を委ねながら事務所へと歩く。毎日同じ時間帯、ほぼ同じようなコースだが、春になって気がついたことがある。雪が融けてアスファルトが表われると、事務所までの所要時間と歩数が微妙に違ってきたことにである。冬と春とで歩き方を変えているわけではないのだが、やっぱり雪道と違って舗装の表われた道路の方が歩きやすいのだろう。そして滑らないように気をつける心配もないこともあって、雪が融けると歩幅が少し広がるようでそれが万歩計の数値にも僅かな減少という結果を与えているようだ。

 そんなある日、後ろから歩いてきた人に追い抜かれた。人それぞれに自分の歩き方があるのだから、追い抜いたり追い抜かれたりするのは当たり前のことであり、むしろ同じ速度でずーっと一緒に並んで歩くことのほうがあり得ないというべきであろう。
 そうは言いながらも、いつだったか仲間と一緒に二次会の会場へと夜の街をさまよっていたとき、「お前は歩くのが早いな」と言われたことがあって、数年間も毎日のように歩いているのだからそれはある程度当然のことだと内心自慢げに思ったことがあったから、歩くことには多少の自負もあるようだ。

 そうした自負を持ちながら歩いているわけではないのだが、あまりにもすいすいと追い抜かれたことにいささか戸惑いのような気持ちを抱いた。それもジョギングをしている人や小走りに急ぐ人たちなどに追い抜かれたのならなんとも感じなかったのだろうが、対象が通勤らしい若い女性だったことがその戸惑いを一層強いものにした。
 別に人生を「鶏口となるも牛後になるなかれ」などと思って過ごしているわけではないし、この歳になったからなのかも知れないけれど、青信号が点滅し始めたら次の青を待つくらいの気持ちのゆとり(もしくは諦め)はまだ十分にあるはずである(別稿「ゆっくり、ゆっくり」参照)。

 それでも若い女性に余りにもあっさりと追い抜かれたことは、我が身の歩行速度のゆっくりさを皮肉られたような気のしないでもない。そこで少し前を歩くその女性とどの程度歩き方が違うのか試してみることにした。別に相手の承諾を得る必要もないことだし、その実験と結果は彼女に追いつけるか更には追い抜けるかを自分だけで判断すれば足りることだからである。

 だからと言って、こちらが走り出して追い抜いたところでそれは公正な判断とは言えないだろう。また、陸上競技の種目にある競歩のように尻を振りながら歩くこともやっぱり公正ではない。
 まずは相手の歩くリズムにこちらが合わせることから始める。右足、左足、右、左・・・。彼女の足と同一のリズムで歩くことにする。なるほど彼女のリズムは私のリズムよりも早いことが分かった。少し歩幅を大きくしてリズムを合わせ、彼女を追いかけることにした。

 それはまさに若い女を追いかけるストーカーまがいの行動と同じような様相を呈している。毎日同じ時間に出会う彼女を追いかけると言うのではなく、たまたま今日始めて見た彼女であり、それも後姿だけなのだからストーカーとは言えないかも知れないが、見かけ上の行為はまさに女を尾行していることと同じである。

 ところで、こんなにも一生懸命努力して追いかけているにもかかわらず、なぜか女との距離が縮まっていかないのである。歩幅を大きくして、歩くリズムも早くしたのだからけっこう一生懸命歩いていることになる。5分、10分、依然として彼女に近づけないのである。10分近くも根を詰めて歩いていると我が足のリズムも多少乱れてきて、気がつくと右足、左足の順番がいつの間にか彼女と逆になっている。
 しかも、しかもである。彼女の歩き方はゆったりではないものの決して急いでいる風には見えないのである。私の方は、多少の意地もあっていつもの歩きより紛れもなく力が入っているにもかかわらずである。

 彼女との差が縮まっていくか、はたまた開いていくかはまさに彼我のスピードの差にかかっている。彼女の分速なり時速と私のそれとが同じであれば、彼女との距離は一定のはずであり、私のほうが早ければ追いついていく道理である。つまり彼女と私との相対速度の差がプラスかイコールかマイナスかによって彼女との距離が決まると言うことである。

 ところで速度を示す方程式は一定の距離を時間で割って求めるのが物理学の定番である。だがここでそうした実証的な計測を行うことはできない。別の方法を考えるなら、歩幅に一定時間における歩数を乗じたものが距離であり、それを例えば一分間続けた距離が分速〇mということになる。

 さて前を歩く彼女の後を追いかけているのだから、少し前に書いたけれど歩くリズムを一致させることは可能である。つまり、彼女の右、左の歩きに合わせて私も同じよう歩くなら、一定時間内の歩数は彼女と同じということになる。
 だとするなら残る因数は歩幅だけである。雪道やぬかるみを歩いているわけではないから、足跡から歩幅を測定することは難しい。だが彼女に追いつけないということは、少なくとも今の私の歩幅が彼女の歩幅を超えていない事実を示している。

 追いつくことを目標にしていながら追いつけない状況はなんとしても癪である。走り出せば追い越すことさえ容易かもしれないが、前にも書いたけれどそれでは公正(後ろから歩いていく私の勝手な見解であることは承知だが)なルールとは言えまい。歩幅をもう少し広げようと努力したが、今だって一生懸命に歩いているのだからそんなに簡単にはいかない。

 朝とは言えども9時に近くなってきて天気もいい。薄いながらコートを着ての身勝手な競争に少し汗ばんできた。それでも差は縮まらず、どちらかと言えば広がってきているような気さえする。

 それでふと思い出したことがある。何年か前の夏、札幌の繁華街すすきので仲間数人と気炎を上げながら二次会のスナックへと人ごみを歩いていた時のことである。少し前を歩く仲間の後姿が同じ方向へと歩いている見知らぬ若い女性数人と、背の高さはほとんど変らないのに尻の位置がずんと低いことに気づいたのである。戦中戦後の食糧難を経験してきた我等世代と、パンやハンバーグなどで育ってきた世代との違いなのかもしれないけれど、我々と若者とは体型がまるで違っている現実が酔眼にもはっきりと見て取れたのである。

 一言で言うなら、我々の体型は前を歩く若者より紛れもなく胴長・短足なのである。足の長さの差は同じ股の角度であっても当然に歩幅の差となって表われるのは数学以前の当たり前のことであり、そうしたあからさまな現実はストーカーをしている私にもそのまま当てはまるのである。
 だから私を追い越していった彼女との競争に勝つことは、最初から無理だったのである。同じような身長であっても、彼女の歩幅は私のそれとは最初から違っているのである。彼女が普通に歩く一歩と、私が懸命に努力した大股の一歩とはほとんど違いがないということなのである。短足の効果はそのまま歩幅の違いでもあったのであり、汗ばむ努力の大股はすぐにも疲労で挫折するであろう徒労でもあったのである。

 歩く速度は歩数に歩幅を乗じたものであるとする物理法則は、歩数を彼女のリズムと一致させるという条件の下では「お前の歩幅は彼女よりも小さい」というあからさまな事実を実証的に伝えてくれたのである。

 間もなく先を行く彼女は途中のJRの駅へと向きを変え、直進する私から離れていった。したがって必然的に私のストーカー行為もそこで中断されることになり、彼女を追い越すと言う願望もまた果たせないままに挫折した。追いかけていた時間は15分くらいだったろうか。若い女性を追いかけるというストーカーもどきの行動は、私に改めて我が身の短足という事実を再認識させたのであった。「速度=歩幅×歩数」の物理法則は、歩数を定数として固定したことにより私の体型をも如実に証明することになったのである。

 やれやれ、ストーカーまがいの追っかけなんぞこの歳になってやるんではなかった・・・。反省・・・。



                                 2008.4.20    佐々木利夫


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ストーカーと物理法則